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ハンコ作る店in北京
ハンコを作る人を案内するため、この1週間で二回琉璃厂へ行った。

私はいつもここで印材(石)を買っている。君石斋(南柳巷2号)


一顆(石一つの単位は「顆」)一番安くて3元。でもヒビが入っていたり、正方形でなく台形だったりするものもある。ガラスケースに入っている印材は20元、40元、60元、100元、上は果てしなく高いものまで。20元以上は私が行くと半額になる。この店では彫ってくれないので、別の店で彫ってもらう。

去年お土産にいくつも作りたい人に付き添い、私が適当に初めて入った印材屋で、その人は2cm四方を2元で買った。そして私が以前よく行っていた店で一字30元で彫ってもらい、62元でできたのだが、印材の質が悪すぎて、店長に「今後うちの印材を半額にするから、外で買うのはやめてくれ」と言われた。彫るのは店長でなく、若い職人だが、以前はよかったのに、人が換ったら彫りがよくないので、私はその店に行かなくなった。その店はこの記事で挙げない。

数年前だが、私の友人が彫ってもらったと見せてくれたのがあまりにも雑で、彼女に「この線がこうだから良くない」と説明したら、「抗議してくる!」と言い、中国語のできるご主人を連れて再度赴き、彫り直させたということがあった。篆刻を学んでいない人は何がどうダメなのかわからないもんね。

以下、印材も売っていて、彫ってもくれる店。ただし、日本で認印に使う大きさの小さい丸い印材や非常に小さい四角の石はなかったり、種類が少ない店もある。

①私自身が友人のお土産に彫ってもらって、上手だった店二店。ともに印材込み二字で120元から。持ち込むと一字30元。これは相場だと思う。

1. 宏寳堂(琉璃厂西街乙3号)小さい四角い印材の種類が少ない。丸いのはたくさんあって、石ではなく、象牙、翡翠、瑪瑙といった硬い材質もあり、それらは彫るのが大変なので150元から。一字30元だから二字だと60元だが、一字のみだと50元。


2. 鼎琳轩(琉璃厂东街101号)



②北京在住日本人が行ったことがあり、一顆で二文字彫ってもらって100元。北京で一番安いとお店の人が言ったという二店。私自身が試したことがなく、篆刻のレベルは知らず。

3. ??(琉璃厂东街105号)以前の宝翠堂。なぜ看板がないのかを聞いたら、店名が変わったばかりだから。名刺もなかった。


4. 文房四宝堂(琉璃厂东街99号)



③店内入って右と左に二カ所、彫ってくれるコーナーがある。値段とレベルは知らず。

5. 北京安徽四宝堂(琉璃厂东街115-1号)


二顆なら、どこでも30分くらいで彫ってくれる。ただ、急いで雑に彫ったりするので、北京在住なら後日取りに来るといって、彫る時間を十分与えたほうが丁寧に仕事をしてくれると私は思っている。

私の手元に実際捺した印影があるのだが、みな固有名詞なので、ここで紹介できないのが残念だ。

今回一緒に行った人は印材を20元で買い、一字30元で彫ってもらい、計80元で出来上がり。

篆刻専門用語を記事にするとほざいたことあったな。しばらく時間なし。9月に書く。


7月14日追記:書体はお店に見本(実際彫って印泥をつけて捺したもの=印影)がたくさんあるので、具体的に希望を言う。

線が太めか細めか。書体が丸っこいか、角張っているか。読めないような古代の文字、篆書か、誰でも読める楷書に近い隷書か。字が白い(字が彫ってある。白文、阴文)か字が赤い(字の周りが彫ってある。朱文、阳文)か。二字のうち、一字は朱文で、もう一字は白文も可。その場合10元プラスという店があるかも。

印材の大きさに関わらず、文字数で料金が設定されている。琉璃厂で「刻章」と書いてあるところは相場が上記のような感じ。どこで聞いても一字30~50元。白文だと30元、朱文だと手間がかかるので白文より10元高い場合もある。

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【2017/07/11 08:42 】 | 書道 | 有り難いご意見(9)
日本(首都圏)で書作品が見られる美術館
<書道に特化した博物館/美術館>

台東区書道博物館(鶯谷)ここは絶対お勧め。中村不折という洋画家(1866年~1943年)の住まいでコレクションを展示している。常設展も見ごたえあるが、特別展が中村不折の油絵のときがあり、私は書道のとき行きたい。

成田山書道美術館(成田)
 
日本書道美術館(板橋)

相田みつを美術館(丸の内)相田みつをの字は好きじゃない。

<書作品を収蔵/展示する博物館/美術館>

東京国立博物館

東京都美術館

国立新美術館

熊谷恒子記念館

畠山記念館(白金台) 国宝「離洛帖」藤原佐理筆、「大慧宗杲墨跡」を収蔵。

センチュリーミュージアム(早稲田)
書が語る戦国の世
7月3日~9月23日 史をかたちづくる数々の断片
(日程は変更になる場合があります)
【主な展示品】
毛利元就筆 書状(室町時代)
伊達政宗筆 書状(桃山時代)
里村紹巴筆 書状(桃山時代)
千利休筆 消息(桃山時代)

根津美術館 はじめての古美術鑑賞 7月2日まで

<便利なサイト>

書を展示する美術館 

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【2017/06/27 08:59 】 | 書道 | 有り難いご意見(4)
北海公園/閲古楼/三希堂法帖(三希以外)
4. 『薦季直表』221年 鐘繇 (151—230年)肉筆はなし。

釈文:臣繇言、臣自遭遇先帝、忝列腹心。爰自建安之初、王師破賊關東。
・内容を要約すると、「建安の初めころ、自分と一緒に先帝(曹操)にお仕えしていた、元山陽太守関内侯の季直という者が、いま許において貧乏暮しをしております。季直の過去の功績に報いるためにも登用してやってください」。

5.『行穰帖』王羲之(米・プリンストン大学附属美術館)
釈文:足下行穰,九人還示應決不?大都當任。
訳:貴方は農作物の視察にいかれたが、戻ってきた9人がその指示を伝えてきました、おおむね貴方の指示通りにして良いでしょう。

6.『七月帖』(秋月帖)王羲之(台湾故宮)
釈文:《秋月帖》七月一日羲之白:忽然秋月,但有感嘆!信反,得去月七日書,知足下故羸疾,(而)(問)觸暑遠涉,憂卿不可言。吾故羸乏,力不具,王羲之白。
《都下帖》得都下九日書。見桓公當陽去月九日書。久當至洛,但運遲可憂耳。蔡公遂危(當為委)篤,又加(zhi)下,日數十行,深可憂慮。得仁(祖廿六日問,疾更危篤,深可憂! 當今人物眇然,而艱疾若此,令人短氣。)
内容は簡単な相手の安否を問う尺牘。草書で7行50字。謝尚への見舞状ともいわれている。『都下帖』(『都下九日帖』・『桓公当陽帖』とも)と合わせて一軸とした14行の模本が存在。『都下帖』も草書の尺牘で、書風も酷似。その両帖一軸を日本では『秋月帖』、中国では『七月都下帖』と称すことが多い。

7. 『二謝書云帖』王羲之
釈文:二謝書雲,即以七日大蘞,冥冥永畢,不獲臨見,痛恨深至也。無復已已。武妹修載在道,終始永絕,道婦等壹旦哀窮,並不可居處,言此悲切,倍劇常情,諸不能自任。未遂面緣,撫念何已,不具,羲之頓首。

8.『張翰帖』欧陽詢(北京故宮)
釈文:張翰字季鷹,呉郡人。有清才,善屬文,而縱任不拘,時人號之為江東歩兵。後謂同郡顧榮曰:天下紛紜,禍難未已。夫有四海之名者,求退良難。吾本山林間人,無望於時。子善以明防前,以智慮後。榮執其(疑缺“手”字)愴然,翰因見秋風起,乃思吳中菇菜鱸魚,遂命駕而歸。

9.『蘭亭序』王羲之(馮承素等)(北京故宮)
353年(永和9年)3月3日に、名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言われている。いわゆる「率意」の書。28行324字。

10.『自書告身帖』顔真卿(台東区立書道博物館)唐・建中元年(780)
釈文:敕 國儲為天下之本,師導乃元良之教。將以……
訳:勅する。国君の後継者は国家の根本であり、師としての指導はつまり、将来の善政のためのよい教えである。

顔真卿(709~785)……皇帝に尽くし、反乱に立ち向かった忠臣として知られ、書法史では王羲之と並ぶ大家として尊敬されている。

自書告身帖……顔真卿の現存する唯一の肉筆楷書。皇子の教育係に転任するよう命じられた辞令(告身)を自ら書いたもので、72歳の書。名誉職に任命されたものの、まだまだ自分は現役であると主張しているかのような、強い気迫を感じさせる書風がみどころ。縦画の送筆部分を最も太くすることで迫力を表現しているが、変化しているのは線の外側であり、内側を直線的にすることで空間の美しさを保っている。麻姑仙壇記とは異なり、筆が冴えて活動しているタイプ。筆の弾力を効果的に用いて、結体にも筆意にも変化が多いのが特徴。蚕頭燕尾が随所にみられる。

11.懐素『論書帖』(遼寧省博物館)
釈文:為其山不高,地亦無靈;為其泉不深,水亦不清;為其書不精,亦無令名,後來足可深戒,藏真自風發.近來已四歳,近蒙薄減,今所為其顛逸,全勝往年.所顛形詭異,不知從何而來.常自不知耳,昨奉《二謝》書,問知山中事有也。

狂草で知られる懐素だが、これは趣が異なり、王羲之のような穏やかさを醸し出している、初期の作品である。

12.『蒙詔帖』柳公権
釈文:公權蒙詔,出守翰林,職在閑冷,親情囑托,誰肯響應,深察感幸。公權呈
柳公権の手紙。自分が年をとり、体が弱くなり力に限界がある。私の職務は暇で、他人のために何か大きなことをすることはできない。私の難所をどうか理解してください。

柳公権……顔真卿をよく学び、顔真卿没後は、顔法を継承した有名な書家と評されている。
蒙詔帖……柳公権の書ではなく、宋人の摸本だと言われている。

13.『千字文』(宗)高宗(台湾故宮)
  千字文は中国古代より子どもが漢字を学ぶ教材として用いられた長詩で、南朝・梁(502–549)の武帝が、文官の周興嗣(470–521)に作らせた。
  「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、四字一句の250句からなる韻文で、1000の異なる字が使われている。
 文字は王羲之の字を、大臣の殷鉄石に命じて模写して集めさせた。完成当初から非常に珍重され、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した。
歴代の能書家が千字文を書いている。中国では智永、褚遂良、孫過庭、張旭、懐素、米元章、高宗、趙子昂、文徴明などの作品が有名。


14.『持書帖』蔡襄(北京故宮)
釈文:襄啟:數日前遣使持書棨戟之下,輒邀行舸光臨弊境,計已通達當直,未審尊懷如何?惠然壹來,殊為佳事。病軀不常得安,多緣飲食而致。山羊澀而無味,雖食不過三二兩,魚鱉每食便作腹疾,以此氣力不強,日久必須習慣,今未雕適耳。蒙書並海物,多感多感! 謹奉手啟上聞。不宣。襄上,賓客七兄執事。八月二十四日。謹空。

蔡襄(1012~1067年)……政治家、文人、書家。進士に合格して翰林学士、三司使となり一時宋の財政を総轄したが、英宗の誤解を受けて辞し、地方官を歴任した。王羲之流の書風と神宗以後に盛行した顔真卿流の書風を兼ねそなえた書体。

15.司馬光(1019~1086年) 北宋の儒学者、歴史家、政治家。
  司馬光の瓶割り(司马光砸缸)。

16. 『黄州寒食帖』蘇軾(台湾故宮)
釈文:一曰:自我来黄州,已過三寒食,年年欲惜春,春去不容惜。今年又苦雨,兩月秋蕭瑟。臥聞海棠花,泥汙燕支雪。闇中偷負去,夜半真有力。何殊病少年,病起須已白。”
二曰:春江欲入戸,雨勢来不已。小屋如漁舟,蒙蒙水雲裏。空庖煮寒菜,破竈燒濕葦。那知是寒食,但見烏銜紙。君門深九重,墳墓在萬裏。也擬哭途窮,死灰吹不起。
訳:<一首目>私が黄州に来てから三度の寒食が過ぎた。年々、春をいとおしむ気持ちはあっても、春は過ぎ去って行き、惜しむゆとりもない。今年はその上、雨にも苦しめられ、ふた月は秋のように寂しかった。横たわって、海棠の花の香りを聞き、えんじ色の花びらも虚しく、泥にまみれる様を思いやった。夜半の暗闇にまぎれて大力の男が春をこっそり運んで逃げてしまったようだ。これでは病気で長らく寝ていた若者が、病が癒えて床から起きたときにはすっかり白髪頭になっていたのと変わらないではないか。
<二首目>春の長江は水嵩を増して戸口に押し寄せ、雨の勢いは一向に止む気配がない。この小さな家は漁舟のように、濛々と立ち込めた水煙の中にある。がらんとした台所で粗末な料理を煮ようと、壊れたかまどに湿った葦をくべる。今日が寒食の日だとは知らなかったが、ふと見ると烏が紙銭をくわえて飛んでいる。天子の宮門は九重もあってあまりに深く、祖先の墓がある故郷もまた万里の彼方にある。あの阮籍のように道に行き詰って慟哭しようにも、冷え切った灰は吹いても燃え立たない。

蘇軾(1036~1102年)……政治家、詩人、書家。王安石の新法に反対し、しばしば左遷された。黄州に左遷されたときに詠じた「赤壁賦」は代表作。多才で、散文・韻文ともにすぐれ、散文では唐宋八大家の一人に数えられ、詩も宋代詩人中第一に位した。書ははじめ二王を学び、後に顔真卿、楊凝式、李邕を学んだ。

黄州寒食帖……宋の元豊5(1082)年、蘇東坡が黄州(現在の湖北省黄岡県)に流謫された時に、自詠の寒食の詩二首を書いた作(47歳)寒食節は冬至から数えて105日目、清明節の前日(今の暦の4月4日前後)に当たる。寒食節には春秋戦国時代に晋の文公(重耳)の忠臣であった介之推が焼死したことを悼み、一切の火食を禁じ、冷めた食事を取るという習わしがある。

17. 『松風閣詩帖』黄庭堅(台湾故宮)1102年
釈文:依山築閣見平川,夜闌箕鬥插屋椽。 我來名之意適然。老松魁梧數百年,斧斤所赦今參天。 風鳴媧皇五十弦,洗耳不須菩薩泉。 嘉二三子甚好賢,力貧買酒醉此筵。夜雨鳴廊到曉懸,相看不歸臥僧氈。 泉枯石燥復潺湲,山川光輝為我研。 野僧旱饑不能饘,曉見寒溪有炊煙。東坡道人已沈泉,張侯何時到眼前。 釣臺驚濤可晝眠,
怡亭看篆蛟龍纏。 安得此身脱拘攣,舟載諸友長周旋。
訳:山に寄り添って築かれた楼閣、そこから広い長江が見渡せる。夜が更けると、箕、斗の星座が軒端のたるきにかかっている。私はここへ来て、「松風閣」と名付けたが、心によく適っている。……

黄庭堅……書家、詩人、文学者。若いときから草書が好きで、初め宋代の周越を師としたが、越に学んでから20年ほどの間は古人の用筆の妙を悟れず、俗気にとらわれてそれを脱することができなかった時期である。黄庭堅がもっとも苦しんだのがこの俗気を脱することであった。その後顔真卿、懐素、楊凝式などの影響を受け、また『瘞鶴銘』の啓発を受け、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立。懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なる。

松風閣詩帖……崇寧元年(1102年)の流謫中の書で、晩年の作として特に重視されている。自詠の詩。行書29行。この詩巻には顔真卿の他に、柳公権の筆意をも兼ねあわせた筆致が伺え、一段と円熟した境地に達している。


18.『苕溪詩卷』米芾(北京故宮)(1088年)
釈文:將之苕溪,戲作呈諸友。襄陽漫仕黻。
松竹留因夏,溪山去為秋。久賡白雪詠,更度采菱謳。縷會(此字誤書旁註蔔乃點去符號)玉鱸堆案,團金橘滿洲。水宮無限景,載與謝公遊。半歲依修竹,三時看好花。懶傾惠泉酒,點盡壑源茶。主席多同好,群峰伴不嘩。朝來還蠹簡,便起故巢嗟。余居半歲,諸公載酒不輟。而余以疾,每約置膳清話而已,復借書劉、李,周三姓。好懶難辭友,知窮豈念通。貧非理生拙,病覺養心功。小圃能留客,青冥不厭鴻。秋帆尋賀老,載酒過江東。仕倦成流落,遊頻慣轉蓬。熱來隨意住,涼至逐緣東。入境親疏集,他鄉彼此同。暖衣兼食飽,但覺愧梁鴻。旅食緣交駐,浮家為興來。句留荊水話,襟向卞峰開。過剡如尋戴,遊梁定賦枚。漁歌堪畫處,又有魯公陪。密友從春拆,紅薇過夏榮。團枝殊自得,顧我若含情。漫有蘭隨色,寧無石對聲。卻憐皎皎月,依舊滿舡行。
訳:苕溪に行こうとして、戯れに作り、友人達に示す。襄陽漫仕黻。
松と竹の間に留るのは、夏の暑さにより、溪や山に出かけるのは、秋になったため。長い間かけて、白雪の詠(うた)に和し、さらに采菱の歌を作った。玉をつづったような鱸(すずき)はテーブルに盛られ、金を丸めたような橘(みかん)は川の中洲にいっぱい。水辺の御殿は限りない好風景。(鱸と橘とを)載せて、謝公と遊ぼう。……

米芾……書は初め顔真卿、褚遂良を学び、のち王羲之、魏晋の諸名家に遡って研究をすすめた。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は4人の中で最も書技に精通している。他の3人はエリート政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家であった。

苕溪詩卷……『蜀素帖』と同じく林希に招かれて苕渓(浙江省)に遊ぶに際し、友人たちに贈ったものである。真跡はもと清の内府所蔵。満州国崩壊時に略奪寸断されたが、1963年に発見され復元修理された。

19.陸游 南宋の政治家、詩人。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。

20. 康里巙巙『顔魯公論書帖』
康里巙巙……色目人でありながら、父の学問をうけて漢文化に親しみ、元の功臣になるべく幼時に国子監に学び英才教育を受けた。官僚としての活躍はめざましいもので、35歳にして礼部尚書(文部大臣)となり、重職を歴任。国家への功労から、文忠と諡さる。康里は鍾繇、王羲之、王献之を学び極正当な学習方法。また虞世南、米芾ともに王羲之書法の継承者。康里回回(兄)も元朝につかえていたが、顔真卿をよくした。

21.沈度<書家>、沈粲(沈度の弟)<書画家>、于謙<政治家>、姜立剛<書家>、姚綬<官吏、書画家>、呉寛<名臣、詩人、散文家、書家>、沈周<画家>、王守仁(王陽明)<儒学者、思想家、高級官僚、武将>

22.祝允明(1461~1527年)
祝允明……書家、文人、官吏。早熟の英才で、酒色と勝負事を好み、俗を憎んで晋人の高踏を慕い、多くの奇行が伝えられている。書は壮年のころから臨書に巧みで、晩年に至るまで古今の法書の研究に努め、各体をよくした。天性が磊落豪放であったためか、晩年は奔放な狂草に長じた。

23.文徴明……文人、書画家。詩文を呉寛に、書を李応禎に、画を沈周に学んで三絶と称賛された。科挙試験は10回受けて合格しなかった。嘉靖2 (1523) 年、翰林院待詔の任につき『武宗実録』の編修に従事したがわずか3年で辞職、郷里に隠棲して書画を楽しみ悠々自適の生活をおくった。

書は李応禎に学び篆隷楷行草の五体を書いた。日本に将来され江戸時代の唐様書道に大きな影響を及ぼした。

24.『煙雲盡態』
乾隆帝(1711~1799年)……清代の六代皇帝。在位1735~1795年。雍正帝の第四子。名は弘暦。康煕・雍正と続いた清朝の最盛期に即位。外征に意を用い、西・南部を内地化しようとし、貴州,雲南に出兵、ジュンガル部、回部の平定を完成し、チベットを支配下に置き、中国史上最大の版図を得た(十全の治)。学術を奨励し、学者を動員して『四庫全書』をはじめ数多くの欽定書を編纂した。また書画の蒐集にも関心を示し、内府に史上最大の蒐集を完成した。詩文に堪能で、多くの詩文集を残している。また書画も能くした。

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【2017/06/21 16:52 】 | 書道 | 有り難いご意見(2)
北海公園/閲古楼/三希堂法帖(三希のみ)
《北海公園》
  遼、金、元、明、清代を通じ「皇家園林」と呼ばれ、世界最古の皇室庭園である。1925年に一般公開された。「燕京八景」の一つ。

《三希堂》
  1747年、乾隆帝は内府秘蔵の書跡を三希堂法帖(全32冊)として集刻させ、それを収めるために、故宮博物館の養心殿に三希堂を設置した。
  清朝崩壊の際、紫禁城から流出し、乾隆帝が最も愛好した「快雪時晴帖」は現在台北の故宮に収蔵されている。中秋、伯遠も流出したが、周恩来首相時代に香港で発見され、買戻されて現在は北京の故宮博物院の三希堂に収められている。

《閲古楼》
  1753(乾隆18)年創建。三希堂法帖の石碑が嵌めこまれている。三希とは『快雪時晴帖』、『中秋帖』、『伯遠帖』で、三帖のほか、魏の鍾繇から明代に至るまでの名跡を収める。石碑は計495点あり、乾隆帝は閲古楼の石碑を好み、数十余の詩をつくり褒め称えた。


1.『中秋帖』王献之(北京故宮)



釈文:中秋不復不得相還。 為即甚省如何。然勝 人何慶等大軍。

訳:中秋に復命できず、相(大臣)が帰還できない。そのため、そちらの状況が大変気になるのだが、いかがであろうか。戦いに勝った人がどうして大軍と等しいと喜ぶことができようか。

王献之(3447-386年)……王羲之の第7子(七男一女の末っ子)。7.8歳から父に書を学ぶ。特徴の一つとして一筆書がある。一筆書とは中秋帖などに見られる連綿のことで、この書風は王鐸や米芾などに影響を与えた。王羲之を酷愛した唐太宗は、王献之の書はあまり重じなかったようで、むしろ宋代に至って評価が高くなった。
中秋帖……草書の尺牘。もとは五行あったといわれるが、二行が欠落して中間3行(22字)が残るだけである。

王献之の「十二月帖」と重複する字が多く、米芾の臨書であるというのが定説である。



釋文:十二月割至不?中秋,不復不得相,未復還,慟理為即甚,省如何?然勝人何慶等大軍。上海图书馆藏宋拓宝晋斋法帖本。

  「中秋帖」は竹を材料とした紙に書かれていが、東晋時代(316-420年)にこの種の紙はなく、北宋(960—1127年)のときにできた紙である。そして、運筆から見て、芯のない柔らかい筆を使っているのがわかるが、晋代の筆は芯がある硬い筆で、墨の吸収が悪く、はね、とめ、転折が自由にならない。これらが王献之が書いたものではないという根拠である。

全日本美術「中秋帖」
書道研究小石會王献之の書

2.『快雪時晴帖』王羲之(台湾故宮)


釈文: 羲之頓首。快雪時晴,佳想安善。未果為結。力不次。王羲之頓首。山陰張侯。

訳:羲之頓首。降りしきる雪が降り、時には晴れ、あなた様にあっては恙なくお過ごしのことと存じます。さて、お約束の件については力及ばず、お約束を未だ果たしておりません。王羲之頓首。山陰張侯。(頓首……手紙文の末尾に書き添えて、 相手に対する敬意を表す語)

王羲之…(303~361年頃)。衛夫人から、後漢の蔡邕・魏の鍾繇の書法を伝授され、その法を枕中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、 12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。この時代にあっては、まだ新しい書体であった行書・草書を、たった一人の技量だけで、一挙に完成の域にまで高めた。ただ、行書・草書は日常の書体で、漢代からの風習として、正式書体としての隷書の地位が残っていた。そのため、王羲之一族の墓誌に羲之の書は採用されていない。王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と、 宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きいようである。

王羲之-書聖と呼ばれるわけ-

快雪時晴帖……円筆による蔵鋒が中心(円筆⇔方筆。蔵鋒⇔露鋒)。


3.『伯遠帖』王珣(北京故宮)


釈文:珣頓首頓首,伯遠勝業情期群從之寶。自以羸患, 志在優遊。始獲此出意不剋申。分別如昨永為疇古。遠隔嶺嶠,不相瞻臨。

訳: 珣頓首頓首。伯遠は事業において盛んであったときにこの世を去り、すでに一年が経つ。生前は兄弟達から深く尊敬されていた。体が弱くたびたび病気をしたため、自在に生活を送りたいと望んでいた。事業が好調になってきた折にこのようなことになり、望みを達成できなかった。彼との別れは昨日のことのようだ。永久に故人となり、遠く山道を隔てているようで、二度と私に会いに来ることはない。

王珣……350-401年。字は元琳、小字は法護、山東省臨泝の人。東晋の書法家王導の孫、王洽の子、王羲之の甥である(王導の父と王羲之の祖父が兄弟)。隆安の初期に尚書令に任ぜられ、車騎将軍の称号を贈られた。

伯遠帖……王珣が友人の伯遠に書いた手紙。五行47字の書簡。書法は王羲之に通じるものがあり、晋代の書風を代表するひとつの典型。宋、元、明、清の各代の名家を経て、宮廷に収蔵された。

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【2017/06/15 10:08 】 | 書道 | 有り難いご意見(0)
書道展とペン字(毛筆、篆刻)教室in北京
第六回翠林会書展
会期:~7月15日(土)11時半~25時 日曜定休
会場:カフェバーShala 建外SOHO西区17号楼地下一階
TEL:58697412




会期中は毎週土曜日午後にペン字、毛筆、篆刻教室を開催(一日だけの参加可)。
1時間半150元(子ども1時間100元)
申込み midoriiro★sina.com(★を@に)

今日午後2時からも教室あり。


毎週金曜日10時から「BAKER&SPICE」(亮马桥外交办公大楼1階)でペン字教室。

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【2017/05/25 07:40 】 | 書道 | 有り難いご意見(0)
故宮博物院蔵四僧書画展2017


6月28日まで武英殿书画馆にて4人の僧の書画展を開催中。作品はすべて故宮が1949年以降に収蔵したもの。



なんで1949年以降かわかる?(説明はwiki、コトバンクから抜粋)

弘仁……明の滅亡に際して福建省に入り僧となる。
髡残(こんざん)……明末の社会的混乱を避けて 40歳近くでみずから剃髪して出家し、諸方の山野を歩いた。
八大山人……明の滅亡後、僧に。高僧として多くの弟子がいたが、のち県令に捕えられ発狂 (一説に発狂を装ったとも) 。脱走して南昌に帰り、書画をかいて過した。
石涛……4歳のとき明朝の滅亡に遭い、父王が殺され、廷臣に伴われて湖北省武昌に逃げて出家。

こういう人たちを遺民画家という。遺民画家とは(中国で)滅んだ前王朝への忠節の心を表現する画家。この人たちの場合は明が滅んで、清に仕えない。だから、清代に故宮に作品があるはずがない。後世に集められたというわけだ。

石涛と八大山人は遠縁の親族。石涛、髡残、弘仁とで三高僧、八大山人を加えて四画僧と呼ばれる。

弘仁……黄山の景勝を画いた代表的な画家で、独特の細い筆線で静寂で明るい山水図を多く残した。






髡残(こんざん/石谿せっけい)……山水画をよくし呉派の正統的画風によりながら,ややあらい筆墨を用いて個性的な画風をつくり上げた。



八大山人(朱耷)……伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。 だが、八大山人の筆を評するに、その描く鳥の足を一本のみで表したり、魚などの目を白眼で示すなど時に奇異とも取れる表現を用いている点を避けることは出来ない。白眼は、阮籍の故事に倣い中国では「拒絶」を表現するものとされる。そこから汲み取れるように、その作画の中には自らの出目であり滅び去った明朝への嘆きと、その眼に侵略者と映る清朝への、屈してしまったからこそ心中でより激しく沸き立つ反抗が暗に表現されている。









石涛……黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家に挙げられる。







書画展だけど、絵のほうがずっと多いし、書家じゃなくて画家でしょう。私が北京に来る前から知っていたのは八大山人だけ。ダンナと知り合った頃(93年)、すでに現代アートに着手していて、伝統的な水墨画などにまったく興味を示さなかったが、石涛の画集が120元だったかな。あの頃は本も安かったので、破格だったが、大きくすべてカラーで立派な、その本を買おうかすごく迷っていた。私はそのとき石涛は価値が有る画家なんだと認識した。

ここ数年、故宮の年二回の書画展はすべて行っているので、髡残、弘仁という名前は覚えた。私はやはり字のほうを真剣に見るけど、面白い字を書いていて、触発された。今日からまた創作を始めよう(今日からが多すぎるアタシ)。

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【2017/05/19 09:04 】 | 書道 | 有り難いご意見(0)
是非見て欲しい六回目の書道展
第六回翠林会書展

会期:5月2日(火)~7月15日(土)11時半~25時 日曜定休
会場:カフェバーShala 建外SOHO西区17号楼地下一階
TEL:58697412




一人一点。一番小さい子で5歳。子ども数人あと大人。特筆すべきは、中国人が「さむらいだましい」と書いたことかな。さむらいのアニメが好きだと言ったのだが、タイトルは忘れた。『銀魂』なんていう有名なのじゃなかった。

会期中は毎週土曜日午後にペン字、毛筆、篆刻教室を開催(一日だけの参加可)。
1時間半150元(子ども1時間100元)
申込み&問合せ midoriiro★sina.com(★を@に)

5月13日,20日,27日 10時~「BAKER&SPICE」(亮马桥外交办公大楼1階)ペン字教室

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【2017/05/11 11:00 】 | 書道 | 有り難いご意見(1)
書道で遊び、チト交流
  微博で「书法雅集」というのを見ているのだが、古今の書作品、篆刻作品を載せるのみならず、「これはなんて読む?」等、クイズなのか、ご本人も読めないのか、画像が貼られる。

1. 谁来说说这个印的来头?

文艺皇帝宋徽宗有七枚最常用的收藏印,称“宣和七玺”。图中的双龙肖形印是其中之一(名画用方印,法书用圆印)。

翠midori:こんな風に分かる人、かっこいい
一匹馬_:回复@翠midori:emoji您过奖
翠midori:回复@一匹馬_:你懂日语吗?
一匹馬_:回复@翠midori:一知半解。请指教emoji

  私がこの写真を見てわかるのは、左の「巻上」という字から、作品は「書譜」。書いたのは唐の孫過庭で、現物は台湾の故宮にある。でも印はわからない。「宋の徽宗の双龍肖形印だ」とわかるなんてすごい。ほぼコメントしない私だが、思わず日本語で書いてしまった。そしたら、中国語で「褒めすぎです」と書いてくるので、おいおい、日本語わかるのか?と思い、再度書き込みをすると、ちょっとわかるという返事。日本語で気軽に悪口書けないよなあ(おいおい)。

2.敢不敢把这条微博@ 给某个人

これ笑った。これを誰かに本当に送ったら、友達なくすわ。誰が書いたか書風を見ればわかるけど、究極の一筆書きが特徴の傅山。(明末清初の書画家)。禽獣って書いてあるんだよ。

3. 中国人の大学生で毎日臨書してアップしている子がいて、その子を見習おうと思って、たまに#毎日写字#を投稿している。私は毎日書いているけど、一つ作品を臨書し終わらないとアップしない。

  書道だけでも勉強する内容が多すぎる。ハンコ見て、「○○の○○印」って言えるようになりたい。乾隆帝だけはずいぶん見たからちょっとわかる。

  興味のある人はここへ。乾隆皇帝有多少印章?

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【2017/04/13 08:39 】 | 書道 | 有り難いご意見(0)
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