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【2024/04/20 16:55 】 |
90年代留学生宿舎の電話の思い出in北京

今は留学生でも携帯電話を持っているんだろうから、学生宿舎に電話は要らないよね。90年代、私は北京の二つの大学に留学したが、どちらも部屋ごとに電話がついてはおらず、一階に一つ電話があって、鳴ると誰かが出る。日本人以外の外国人が出るかもしれないから、かける日本の親も英語で最小限は言えなきゃいけなかったり、または「502wǔ líng èr」とか部屋番号だけは中国語ができるようにしてあったり、、、だったんじゃなかったかな。

以下、学び舎をともにしたユキヤマ嬢のコメント。

90年代のこと。美院の宿舎の電話、夜になるとしょっちゅう鳴ってた。誰かが出て、誰かを呼ぶ。懐かしい電話室 (ボックス)

ある日、私が友人私が友人Aと長電話をしていたら、突然割り込まれた(といってもキャッチじゃない。そんなもんあるわけない。偶然私に電話をかけてきた友人Bが、何度も「話し中」と言われ、しびれを切らして交換台のおばちゃんに「いいから繋いでくれ」と頼んだのだった) 。友人ABは共通の友達だったので3人での会話となった。これはオモシロイ。もう一人加えようということになり、私が別の階の電話から友人Cに「私に電話して! 話し中でもいいから繋いでっておばちゃんに言ってみて!」と頼んだ。

数分後、難なく友人Cが加わって4人になった。 すごいー! と言い合った瞬間、4人では声がぶつかり合って会話が成り立たないことに気付いた。。。こんなこともできるのか! という驚きはあったが、4人だと誰かが沈黙していなければならず、「アホやな」と言われても仕方のないユキヤマであった。

ここからみどり。各階にあった電話ボックスから市内にかけることはでき、電話を受けることもできたが、国際電話をかけるのは地下の特別電話室へ行かなければならなかった。そこに常駐しているオバちゃんに電話料金を支払うんだけど、電話を切ると、オバちゃんが電話局に電話して「今の電話代いくら?」と聞く。

私が一度実家にかけたとき、母と「もしもし」しか言えなくて電話がプツっと切れた。どこの不都合かわからなかったがい本来ならこれでも1分の料金は支払わなきゃいけない。オバちゃんは「今まったく会話してないってことにして」と私に言い、電話局には「しゃべってないんから支払えないよ」と言う。しばらく払う払わないでもめていた。私に「通じなかったって言いなさい」と受話器を渡される。とっさに中国語で何て言っていいかわからず、「
我,我没说话」とかなんとか言ったような。そしてまんまとその分の電話代はタダに。中国は言ったもん勝ち!主張が強ければ通ることたびたび。

あと、忘れもしない4月のあの日。美大なんて留学生少ないから、美大なんて留学生少ないから、8階女子、9階男子。部屋にいたらノックされて「みどりさんに電話がね。9階に来ちゃったんだよね」と呼びに来てくれた日本人男子。男子階の9階まで行って、電話を取る。「喂,你是○○○吗?」と私のフルネームを言う中国人。「是」と答える私。そして「我是高桥」。え?高・桥(gāo qiáo。おいおい!私を呼びに来た日本人じゃないかよ。電話を切って、8階に戻る。8階の電話のところにいて笑顔で私を迎える高橋。今日は愚人节(エイプリルフール)だからって。おいおい!まんまと騙されたわい。

あ、あとね。電話機が頻繁に盗まれたのよね。留学生宿舎は学生宿舎の8.9階で、下は中国人学生。ほかの大学の留学生宿舎みたいに、建物の入口に門番がいなかったから、誰でもいつでも入り込めた。シャワーも8.9階のを留学生以外に使われちゃうからって、私がいた二年目から鍵がついたんだよなあ。

ユキヤマ嬢、懐かしいよね。なんかあったらまた書き込んで!


おまけ:今日のコメントに関連して「4人で一緒に」なら是非この動画をと無理やりこじつける。今日初めてゆっくり見た『最美和声』という歌のコンテスト番組。一人が歌い、この人いいなと思う審査員はボタンを押すと、マイクがやってくる。そこで合唱する。この手の歌番組、審査員はいずれも著名な歌手で、お金かかってるなあとつくづく思う。みんな主張強いから、合唱しすぎっちゅうか。でも歌が上手い人を見るのは気持ちがいい。審査員もこの職業愛してます感が溢れていていい。

・全部見たい人はここへ→「最美和声 140419」(81分)。


・一曲でいいならたとえばここへ→「我愿意」(9分)。

拍手[6回]

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【2014/05/20 12:00 】 | n90年代 | 有り難いご意見(18)
<<文明なバットマン+日本小学生的疯狂朝礼 | ホーム | ポケベルがあった頃、携帯電話がデカかった頃in北京>>
有り難いご意見
これまた懐かしい。
そうでしたね~。留学生寮は1Fじゃないと外の電話がつながらなかったですね。

今はびっくりするぐらい留学生寮もきれいになっていて、便利になりましたね。

私の留学していた頃は、電球もトイレ並みの明るさだったな、、、。
(空港もどこもかも)
【2014/05/23 12:56】| | SUMARI #7f3c6abab7 [ 編集 ]


空港から市内への道。いや、市内も。灯りがオレンジだった
私も自分が語学留学した大学に全然行ってないけど、和食屋やマクドナルドがあるらしいし、とんでもない高い立派なビル(校舎)が建っているのは写真で見たことがある。留学生数も増えて、留学生宿舎も増えて。駐在員の奥さんと話していると、「日本と同じ生活をしようとしている」人が結構いる。お金出せばできるもんね。留学生でもいる。でも、90年代ってそれは物理的に無理だった。北京に留学する醍醐味を楽しんていた。
【2014/05/24 11:02】| | みどり周杰伦女友疑似怀孕 #4fce0a93b5 [ 編集 ]


留学生宿舎の電話ネタ
思いつくネタを。
僕は、4階建ての留学生宿舎の1階の丁度真ん中辺りの部屋にいました。
廊下の一番端っこに電話があって、(あれって、受けるだけじゃなくて、市内だったらかけれたのかなぁ?かけたこともあるような気もするけど)電話がなる度にすぐ近くの部屋のアフリカの留学生が電話を取り次いでいた。ほとんどの電話が廊下の奥の遊びまくっていたアフリカの留学生への電話だったんで、毎回、電話を取り次いだ留学生が、廊下の奥に向かってその留学生の名前を叫んでいた。その名前は忘れちゃったけど。
留学2年目になると、語学勉強の意味でも電話に出たほうがいいと思って、電話が鳴るたびに、部屋からダッシュして電話に出てた。誰を呼んでいるか聞き取れればOKで、分からない時はとても困った。
そういえば、一度、女子寮のロンドン大学から留学していた日本人女性の親御さんから電話があり、僕が電話にでて、その人の部屋まで呼びに行ったことがあったなぁ。その人が、親と電話でけっこう口論になっていたのを思い出した。私の自由にさせてよ!みたいなことを大きな声で話していた。

国際電話は、入り口ロビーの電話ボックスでしてました。専科楼の1階にある電話係りの人に相手の電話番号を伝えて、指定された3台ある電話ボックスの中の一つで待っていると、ボックスの中の電話が鳴り、受話器を取ると相手を呼び出している音がしている、という状態でしたね。
留学2年がもうすぐ終わり、もう半年、留学を続けたいと親に電話で話したら、思いっきり叱られました。いい加減に働け、と。今、考えると、仕事をしないで楽しいことをしているだけの生活を、もっと続けたかったんですね。

電話ネタ、今日はここまで。また、書きます。
【2014/05/26 22:47】| | 功夫man #5830027bb9 [ 編集 ]


懐かしすぎるぅ 
私は初めは1階、半年後に4階(だったかな?)に部屋があったのですが、4階のとき近くの日本人女子2人がいつも「私がとる!」って競争してた。あと走り方にクセがある人がいるじゃないですか。私の同屋の欧州人が「あの大阪の子が走っているとすぐわかる」とよく言っていた。各階から北京市内へは電話できましたよ。私、外にかけたことが何度もあった。

1階のロビーに大きなソファがあったんだけど、アフリカ人が自分の部屋に持って行っちゃったんだって。入口には門番のおじいさんがいるから、外には持ち出せない。それで留学生事務担当の先生が全部の部屋を探しに行ったら、もちろん見つかった。日本人男子(誰だか忘れたけど)が「そのアフリカ人、絶対自分のだって言い張るんですよ。バカでしょう?」と。
【2014/05/27 09:38】| | みどりAKB48两成员被刺伤 警方当场拘捕行凶男子 #55feb728dc [ 編集 ]


電話ネタその他〜2
留学生宿舎の電話が鳴り出て「喂?」と答えると、電話の向こうで慌てた様子で「うううぇい?うおし、うおし…」。「あ、日本語でどうぞ。」「あ〜よかったぁ。」みたいなことが何回かありました。
逆に中国語でまくしたてられて、まったく分からなかったことも。
真夜中2時3時に電話が鳴り、いつも出てくれる電話に一番近いアフリカの留学生が出てくれず、起きるのもめんどくさくてほっといても、皆同じ考えなのか誰も出ず、しまいには我慢できず起きて電話に出ると、「喂!某某在吗?」と酔ったような口調でアフリカの留学生の名を…
なかなか鳴り止まないから緊急の電話かと思い出たのに…腹が立って、「他不在!」ガチャン。たまにありました。

夜中10時頃、女子寮の廊下を通ったら、廊下に欧米の女子留学生数人が座り込みタバコを吸っていて、甘い匂いが漂っていました。あれって大麻だったのかなぁ。
北京語言学院では大麻を売っている、と噂がありましたが。

留学後半、同屋に迷惑かけてはいけないと、同い年の数人で毎夜毎夜、ロビーで密かに酒盛りしてました。夜中に異性の部屋に遊びに行こうとする不届きな奴らが、ロビーのすみでお酒を飲んでる僕らに皆ビックリしてました。ロビーから留学生の部屋の灯りを見て、遅くまで起きてるなぁ、何してるんだろう、と、酔っぱらいが話していたのです。

また、書きます。
【2014/05/28 01:02】| | 功夫man #58273c9ae7 [ 編集 ]


その3
短く。
電話じゃないけど、アフリカの留学生らが、市場から生きた鶏を買ってきて、僕の部屋の真ん前にあった洗面所でその鶏をさばき、料理してました。
その後、洗面所には鶏の羽毛やら羽根が散乱していました。誰も文句言わず…

宿舎の各階には、狭い調理室?がありましたね。ガスボンベ式のガスレンジがあって。そこにゴキブリが出るということで、ある日本人留学生が煙の出る殺虫剤を仕掛けて、その部屋を目張りしてゴキブリ退治してました。その後どうだったのかな?

北京で見たゴキブリって、小さいのばっかりでしたよね。中国の東北部出身の中国人男性で、俺は東北虎だ、と粋がっていましたが、日本のゴキブリは大っ嫌いといっていました。中国にはあんな大きなゴキブリはいない、と。

以上。また、書きます。
【2014/05/29 23:56】| | 功夫man #58273c9ae7 [ 編集 ]


その4
先日、事務所で仕事をしている途中、外からの声に連想して、突然、留学中の宿舎内でよく聞いていた声が頭の中に蘇って来ました。
廊下の電話に出たアフリカの留学生が、廊下の奥にいる同じくアフリカの留学生生の名を呼ぶ声です。
「バッデッスタ‼︎」
呼んでいた彼も、呼ばれていた彼も、今頃どこで何をしているんだろうか?
【2014/06/16 22:59】| | 功夫man #582fd4f024 [ 編集 ]


これ軽く「その10」くらいまで続くことを切に祈り
私らは外国人だから、男子が夜中に女子の部屋へ行こうか、まったく問題なく、治外法権でしたが、中国人の宿舎は大変でしたよね?私の同屋が欧州人だったの覚えていますか?背か180あって(路上で1毛だっけ?体重と身長測ってくれるのあったでしょ?あれで180と言われて、179だ!って怒ってた)、細くて、短髪、ものすごくきれいな顔なんだけど、男子にも見えた。一緒に中国人の女子寮へ入ろうとしたら、門番のおじさんに「ダメダメ」って。また怒ってた。

中国のゴキブリは小さいですよね?北海道も小さいんでしょ?北海道の人が東京に来て、デカいの見てビックリしたという話を何度か聞いたことがあります。

留学生宿舎の1階につき一箇所ある台所、換気扇なかったんですよね。空気悪かったーーー!
【2014/06/17 08:05】| | みどり(见外)水くさい #55ff3debb6 [ 編集 ]


その5
電話ネタから離れますが…
月に一度だったかな?ベッドのシーツを交換しませんでしたか?
宿舎ロビーから入り左側の部屋に持って行き、交換してもらいました。暖水瓶を割ってしまった時も、そこで交換してました。
他の大学でも似たようなものだったんでしょうね。
あ、今、突然思い出しました。
人民大学留学生宿舎にはエレベーターがあり、中には小さな机と椅子に座ったおばさん服务员がいて、エレベーター操作をしてました。今でも座ってるのかなぁ?

掃除のおばさんがいました。今でもなんとなく顔を覚えていますが、僕と仲の良かった日本人留学生が、そのおばさんに日本から荷物が届くたびに、何かあげてました。いつも掃除してくれてありがとう、と。
留学最終日、宿舎から空港近くのホリディインへ行くとき、おばさんはタクシーの運転手をしていた息子さんに僕らをホテルまで送らせました。到着後、お金を払おうとしたら、要らない要らない、お袋に叱られる、と。
方言がきつくて、ほとんど分からなかったおばさんでしたが、留学中、親切にしてくれました。懐かしい思い出です。

また、書きます。ブログの流れと関係なしに。
【2014/06/20 00:58】| | 功夫man #582fd4f024 [ 編集 ]


その6待ってます
月に一度ベッドのシーツを交換してくれましたね。懐かしい!留学生5.6人で一台、洗濯機持っていたけど、干すところに困るから、交換してくれてたんですね。エレベーターは使い方がわからない人が多く、壊れやすいから、中に「司机」がいたんじゃないですか?留学時にあの中にいる人が「司机」という中国語だと知って、へえと思いました。
功夫man氏と同じ大学のほうの掃除のおばさんはその存在さえ覚えていませんが、美大に移ってからは、掃除というか用務員のオバさん(招待所部分の予約受付なども含む)が二人いて、わてら「高雅」と「不高雅」と呼んでいた。
【2014/06/22 10:02】| | みどり(水火不容)犬猿の仲 #55ffc35d31 [ 編集 ]


その6
同学数人とお金を出し合って洗濯機を買いましたね。大学近くの北太平庄商场で。金額忘れたけど。
テレビも听力を鍛えるために、共同で買いました。白黒テレビを。誰の部屋に置いてたかなぁ。結局、あんまり見なかった…
今にして思えば、ラジオを聴いた方が良かった、と思います。集中して聴いて勉強になったかも。
留学2年目には、冷蔵庫も買いました。小さなやつで、付き合っていた彼女と一緒に買い、彼女の部屋に置いてました。ビールとか料理用の野菜、肉などを入れて。
1年目の夏休みには、一時帰国の同学の小型冷蔵庫を預かり、ビール、コーラなどを冷やし、とても重宝しました。この経験から冷蔵庫を買ったんです。

洗濯機といえば、以前にもコメントに書きましたが、1年目の夏休みに宿舎に残り勉強していた時に、壊れた洗濯機を四苦八苦しながらメーカーや修理店に電話して、最終的に师傅に来てもらい修理できたことがとても嬉しかった思い出です。
下手くそな中国語でもやればできると自信をつけたできごとでした。
同じように、帰国する日本人から日本の自転車を譲ってもらい、自力で自転車登録(?)したことも、自信を深めたできごとでした。

では、また。
【2014/07/06 21:49】| | 功夫man #582ff9a775 [ 編集 ]


洗濯機のおもひで
新入生として入学したとき、それまで長年日本人留学生の寮長をつとめていた長老から「わしゃもう辞めるから、一番若いお前さんがやれ」と言われ、有難く(?)寮長を拝命(?)した。89年を経験した長老は「毎年、日本人留学生の名簿を作って大使館へ届けるように」と言い残し、卒業していった。その際「新しい洗濯機も買え」ということになり、私が「洗濯機要りませんか?」「あと何年ここにいますか?」と訊いて回って、残り年数をコマ割りして集金、百貨大楼で新しい洗濯機を買い、荷車で運んでもらった。その時の嬉しかったこと。忘れもしない「海棠牌」二槽式の洗濯機。
その日から、寮長改め洗濯長と呼ばれ、翌年の新入生から徴収したお金でホースを買い替えたり、修理を頼んだりした。
個人的な事だが、私は洗濯機が大好きだ。水が入って、奥妙が溶けて、洗濯物がぐるぐる回るのをじっと見ていた。
一台の洗濯機をみんなで使うのは、人によっては「イヤだ」と思う人がいるだろうけど、あの時代は、いつもみんなで協力して生活していて、それはそれで楽しかった。
今はもう全自動になっちゃって、ぐるぐる回る洗濯物を見ることはできない。(ウチ、ドラム式じゃないし)
【2014/07/06 23:19】| | 洗濯長ユキヤマ #9beb664724 [ 編集 ]


洗濯機
いつ頃だったか忘れましたが、短期間でアメリカの大学から留学生の一団が来ました。
その中に、非常に暗い青年がいて、その人が、洗面所に置いていた洗濯機を使っていたんですが、それまでの人生で自分で洗濯をしたことがなかったのか、洗濯槽いっぱいに洗濯物をいれて、洗剤をかけ水を入れ、まったく回転しない洗濯物をじっと見つめていたのを、思い出しました。
この後、こいつ、どう処理すんだろうか、と心配になりながらも、関わり合いなりたくなかったので、何も声をかけませんでした。
【2014/07/07 12:03】| | 功夫man #92d92546b1 [ 編集 ]


洗濯機全自動じゃなかったよね
功夫man氏、冷蔵庫も共同で使っていましたね。美大に移ってからは、二人部屋の韓国人と二人で部屋に置いて小さい冷蔵庫を置いていましたが、キムチ入れやがるから、臭くてたまらなかった。韓国人と同室の外国人はみんな文句言ってたな。

ユキヤマ嬢、そうそう洗濯機の管理(お会計)担当だったよね。いやあ、懐かしい。掃除のオバちゃんの「高雅」の方がわてら留学生の洗濯機を無断で使っていて、書道論留学の日本人お兄様が「そういう脏なものは洗わないでください」とオバちゃんに言ってて、ビックリした。そうハッキリ言うかあって。あ、長老と連絡とってるの?特徴ある人だったよね。

功夫man氏、前にも書きましたが、日本で洗濯をしたこともない(たぶん)女子大生、洗濯機が止まるまでずっとそこにいて、「終わる頃に来ればいいじゃない?」って誰かが助言したら、「ええ?ずっとここにいなくていいんですか?」って、日本人でもこんなのいるかと情けなくなった。
【2014/07/07 13:28】| | みどり和男人一样像模像样地工作(男たちと互角に仕事をしてきたのに) #55ff3d8d1b [ 編集 ]


あえて買わず
留学後、仕事で駐在した時、柳州市内のデパートで洗濯機を嫁さんと選びましたが、ハイアールだったかな?全自動洗濯機が売っていました。
でも、なんか当時は信用できず、ニ槽式洗濯機を買いました。
まぁ、値段が安かったこともありますが。
【2016/10/03 22:08】| | 功夫man #9b11124a7a [ 編集 ]


功夫man氏、私の課題(日翻中)一行ずつやって!
私も90年代前半に北京で留学二校して、両方とも洗濯機は二層式だったな。

私は洗濯板を使ったことがないんですが、94年のとき、韓国人留学生が「何十年たっても洗濯板は絶対必要だ」と言って、洗濯機と両方をちゃんと使っていました。確かに手洗いしたほうがきれいにはなるけど。
【2016/10/04 22:21】| | みどりinアトリエ #55fe8a103d [ 編集 ]


携帯電話機の話
僕が初めて携帯電話機を買ったのは、広西柳州地区に駐在していた1995年5月のこと。
94年2月から駐在を始め、私用の国際電話は、柳州市や桂林市に出た際に、大きな郵電局へ行き実家や嫁さんに電話してました。
会社事務所からする場合は、話した時間を記録し老板に使用料を払ってました。
老板は不要、と言ってましたが、公私の区別をつけるために払ってました。
また、柳州や桂林のホテルの電話からかけたり。
ちなみに、僕が住んでいた駐在先のホテルからは、国際電話をかけられませんでした。

そんな状態で不便に感じ、携帯電話機を買うことにし、老板に頼んでモトローラ社の携帯電話機を買ってもらいました。(老板名義)
当時は、手机とは呼ばず、大哥大でした。
金額は、15,300元。
当時の為替レートが約13円でしたから、日本円にして約20万円!
すごいですよね、この金額。
給料より高かった。
初回充電には、14時間必要でした。
使用料は月々1000元を老板に渡し、老板の口座から引き落し。
通話料金制度の詳細を知らなかったので、何回か料金不足になり、通話できないことがありました。国内通話はあまりすることはなく、主に、国際電話でしたからすぐに料金不足になってしまいました。
でもほんと、携帯電話って便利だなぁ、と思い、うれしかったですね、手に入れた時は。

北京に遊びに行った時、連絡用に持って行ったのですが通話できず、料金不足のはずはない、と不思議に思っていたら、北京の武術の老師曰く、契約が広西地区のみになっていて、他の地区では使えないのでは、と。
全国漫遊という契約ならば、国内どこでも使える、と言われました。
そうだったのかもしれません。ただ、香港では使えましたけど。

本当によく使いました。
便利だなぁ、と。
97年1月、家庭の事情で会社を辞め、中国から帰国する時に、その携帯電話機を老板に譲りました。老板は国内各地を飛び回って、いろんな生意をしていた人でしたが、当時、携帯電話を持っていませんでした。
僕が老板に、これを使う?と尋ねたら、今はもっと薄くて安いのがあるけど、預かるよ、と僕が最後に払おうとした使用料日本円3000円を受け取りませんでした。
つまり、約20万円で買ったモトローラの携帯電話機が、1年半で3000円になっちゃったわけです。
確かにその当時の携帯電話機の普及と進化はすごく早かったですからね。
【2017/08/12 10:37】| | 功夫man #7f4d0fd265 [ 編集 ]


これ駅でネットにつなげて後で読みます
一日ブログ主やってもらおうかな?また連絡します。
【2017/08/12 16:34】| | みどり現在新宿 #7dc2329383 [ 編集 ]


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