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ダンナに一カ月くらい会ってない。奴は今、銀川にいる。いつもいろんなところへ行っていて、「羨ましい」と私が言うと、「じゃあ俺の代わりに仕事してくれ」と言う。できないっつ〜の! 新しいパソコン買って欲しいから、早く帰って来ないかなあ(そっちかい!)。 ニュース"首届“宁夏银川镇北堡西部影城国际艺术节”隆重启幕" PR |
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迷惑なほどデカいスイカが実家に届いた。私ら四人家族が北京から来たからいいけど、うちの実家、両親+初老(弟がそのように自分を言う)は食べる量がもともと少ないし、食べた後、残りが冷蔵庫に入らない。 弟が「食え、食え」と命令。「水飲むの禁止。とにかく食え」。そして、日本式にスイカを切り、大きな皿に置く。人数分、小皿が配られる。 北京だと、ばあさんがスイカを切るときは、小さくキューブ状に切って、楊枝が刺される。一口大の赤い部分だけがテーブルに乗るわけよ(白い部分は漬物行きだから!)。ダンナ、日本式に慣れない。「こういう風に食べると、手も口の周りも汚れる」とのたまった。 弟:オカマかよ! いやいや、オカマじゃないけど、貴族だから。 |
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週に一回はここへ来て、一泊し、朝子どものどちらかを学校に送って、そのままアトリエに帰る。これが何年続いているかな?朝はギリギリに起こすの。子どももそうだけど、就寝が遅いから。子ども達は食べる時間も寝ていたいくらいなので、おにぎりかサンドウィッチをラップに包んで持たせる。 ダンナ、絶対にお粥。これが七面倒臭い。私も子どももお粥嫌いだから、ヤツのためだけにお作りなるわけよ。みどり様が。もちろんお米からじゃなくて、前日残ったご飯からだけど、漬物二種出して、それを毎週やっている。 朝起きたら、お粥より先に白湯!のダンナ。こっちは家族の朝ごはんの準備をしているというのに、起きてきて「我喝水」(私は水を飲む)。初めは「自分でやれっての」と心でいちいち腹立ててたけど、私、女神だから!もう最近じゃ起こしてすぐマグカップにお湯を入れて、置いておく。 私は3人が出て行ってからゆっくり朝食をとりたいので、一緒に座ることない。朝は一人でバタバタしている。食卓を前にダンナがマグカップの中を凝視して「ここに何がある?」。確かに黒いものが入っている。アリにしては細長い。「目が悪いからよく見えない。何?」。自分で中捨てて、また入れればいいじゃん! そしてマグカップを私に渡す。よーく見たら、アリが2匹縦につながっていた。それを言ったら、ダンナ「蚂蚁联合在一起」(アリが一緒に連なっている)。「はいはい、取り替えますよ」と台所へ。ダンナ「你害我,暗杀我」(あなたは私に害を与えます。暗殺します)。もうやめてよ。朝からそんな冗談。 そんな簡単に暗殺できるなら、とっくにしてるわい(おいおい)。 |
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20年ぶりに炎黄艺术馆へ行った。仕事だよ、仕事。こんな北になかなか行かない私。西の山が見える!
炎黄艺术馆は有名な画家黄胄(故人)が1991年に創設した美術館。1階の正面に黄胄の作品が展示してあり、あとは特別展を随時開催している。 こういう絵。 1階のほかの展示室では子どもの展覧会を開催中。中国抗日战争胜利70周年とか書いてあるが。作品、裏打ちはしてあるが、額にも入れず、軸にもせず、ホチキスで止めてある。かわいそう。 2階は女流画家の個展。 結構良かった。 炎黄艺术馆官网 1991年創設当時の写真。打ち合わせも終わって、外でマブダチと待ち合わせ。バスに乗って、鸟巢方面へ。 この下にショッピングセンターがあるという。 夜はいつも長蛇の列で入れないという雲南&東南アジア料理の店「边境共和国」へ。4人で139元。美味しかったよ。 「メイソウ」って中国に増えているという店に初めて入った。袋を持っている人を何度か見たことがあったのね。娘が「あの赤と白はユニクロだ」って。 お店の中に「日本なんたらかんたら」って書いてあるんだけど、日本で聞いたことないから、調べさせてもらったぜ。 ホームページ←これ見てよ→「日本の若手デザイナー三宅順也が創設し」。でも、見つけてしもうた。 ・三宅順也氏が「メイソウは中国企業」であることなどを明らかに・「メイソウ」がヤバすぎる・今度は人気のメイソウをパクった「ゆうやと」が登場 わざとミスプリントみたいな印刷も今後はいいのかもね。頑張れ、三宅! |
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もうすぐ帰国してしまう人をアトリエに連れて行くことになった。それで一度整理しておこうと思う。 北京で画家村というと、たいてい「798ですか?」と言う人が多いんだけど、あそこ村じゃないでしょ。工場跡。今は雑貨屋とかレストランがすごく多いし。 日本語で紹介しているサイト。 ・宋荘画家村(北京観光) 2013年の記事なのに、「芸術家約400人あまりが集まってきており」とある。5年前で5000人くらい。先週ダンナに聞いたときは7000から8000人と言っていた。もしかして私も入ってるかも。
ちゃんとした文章を読みたい人は以下へ。 ・第八回宋荘文化芸術祭(多田麻美) 以前紹介済みだが、見覚えのある(ありすぎる)顔が! ・北京芸術村(麻生晴一郎)
中国語で紹介しているサイト。 画像はここから
アクセス:長距離バス:始発の「大北窑南」で808か809に乗って、たとえば「宋庄美术馆」下車。 |
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アタシの携帯、息子により重傷を負わされた。 息子:ママのはiPhone4Sでしょ。今なら安いよ。 娘:ママ、5にしなよ。機能が4よりいいから。辐射(電磁波)が違うんだって。体にいいほうがいいよ ダンナに電話して事情を話す。翌日には京東(ネット通販)で6を買い、その翌日に6を手にして、やってきた。 速い。行動が速すぎる。四コマ漫画になりそうだ。 正確には自分が使っていた6をアタシにくれて、新しいのを自分のにした←貴様!新しいの、アタシによこせ!っつーか、買わなくてもいいでしょ。私が日々倹約しているのがバカらしくなる。貯金をしない。入ったら使う。これは結婚したときから実感している。
(何気に続く) |
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お店の看板を頼まれていて、書いていた。書体は隷書(わからない人は画像でここへ)。私の得意とする書体ではない。昨日ダンナが帰ってきて、「俺が書く」と。ダンナはもう5年くらいずっと隷書を書いている(最近は張遷碑の臨書)。書道をちゃんと習ってきたことはないが、画家でしょ。センスはあるし、これだけ熱心に練習してたら上手になるわ。私から見ても、上手だと思う。 冗談で「じゃあ看板書いてよ」と言ったら、真面目な顔つきに。え?えええ?まさか本気で私の仕事を奪う?横に四文字で長さ120cm。かなりデカい。私はここで日本人と中国人の違いを改めて認識した。 1m以上なんてデカい紙に書く場合、日本人の書家は床に毛氈(下敷き)を敷いて書く。中国人はどんなにデカくても、机の上で書く。紙のサイズがデカいと、全体が見えないじゃない?そこでどうするかというと、定規で測って、マスを作る。 最近、中国人に書道を習っている日本人二人と別々に話したんだけどね。半紙くらいのデカくない紙でも、初めにマスをいちいち書いて、その中に字を書くんだって。これ先生が日本人ならやらないことだ。 今回は四文字だから、三本線を書くと思うでしょ?ダンナ、囲ったよ。四角を四つ書いた。字間も等間隔になるようにって。 私は線を引いて書いたことがない。字は画数が多いのと少ないのとがあるから、きれいに四分の一にすると、逆にアンバランスになる場合もある。それに機械が書いているんじゃないから、見事に四分の一の位置に入っている必要もないと思っている。線を引かないで、等間隔に書く。これも訓練だから。 で、昨晩ダンナが書いては、「次!」って。新しい紙を置く、墨を足す。アタシにやらせるのよ。自分でやればいいでしょ!「我是大师」(俺は大家だ)って。「过瘾」(痛快)とか言っちゃって、止まることを知らない。最後の一枚。ものすごく満足し、私に「ここに名前を書け」って言うの。 出たよ、中国人。見事に四分の位置にスポっと入っている。私の書いたものは多少ズレている。私が書いたことにしてこれを出せって言うんだよ。おかしいでしょ!いや、私、自力で書けますけど!どうやら私の字が気に入らないらしい。 今朝、私のほうが早く起きて、書いて、仕上げた。見せたら、「なんで俺のにしないんだ?」。これ、実はちょっとビックリした。初め冗談かと思ったよ。まさかの本気。私ね、4月で結婚二十周年なのよね。私が思うにね。20年後に「4月で結婚四十周年なのよね。それでもカルチャーショックにビックリしている」とか書いてそうだ(って、いつまで続ける気なの?ブログ)。 |
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円明園を出て、ダンナの車に乗り込むとき、バイクに乗ってやってきた駐車料金徴収者(バイクが必要なほど、広い範囲を管理している)。路上駐車なんだけど、しっかりお金をとられるわけ。ダンナが「これは許可されてやっているのか?」ってはっきり聞いた。そしたら「特批的」(特別に許可されている)って答えたので、さらにダンナが「証拠を見せろ」と。ちゃんとハンコついた「駐車料とっていい」と書かれた紙を見せてくれて、ダンナはその写真まで撮ってたよ。
↑この人。今日の写真はすべて助手席から撮ったもの。 ダンナが昔住んでいた円明園画家村に向かう。バス通りを北へ入る。もう懐かしくて、ワクワクだ。 ↓この左側は「达园宾馆」というホテル。この中に釣り堀があって、日本人留学生数名とダンナとで一緒に魚釣りに行ったことがあったなあ。※この通り。 ↓これが入口。iPhoneで撮ったら、「不能拍照」って保安に言われた。 道なりに右へ曲がると、おおおおぉぉぉぉおおおお。この村の名前「福缘门」と書いてある。私は語学留学と書道留学の間の半年、日本にいて、ダンナに3日に一回くらい手紙(宛て名)を書いていた。だから「福缘门」は本当に懐かしい。 ダンナはこの画家村の中で一回引越しをしているのだが、最後に住んでいたのが、ここから遠くないあたり。でも以前は平屋しかなかったのに、今は二階建ても結構あるし、どこがどこだが、ダンナでもよくわからない。 ちょっと進むと、突き当たりにぶち当たる。 あれ?90年代は突き当たり、なかったのに。この正面、かつてはすべて平屋だった。平屋を壊して、円明園の敷地になっちゃったんだって。民家つぶして、公園の面積が広くなるということだが、そもそも、この一帯はすべて円明園だったんだよね。今の北京大学も清華大学も元々はすべて円明園だった。そう考えると、恐ろしくデカかったんだな。 以下、円明園の説明(wikiより) 1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。 乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。 皇帝による皇帝のための庭園。そんな誰にでも書けることは置いといて、※ 位置的に北京大学、清華大学の近くに現代アートやる、尖った人達が住み始めちゃって、画家村が形成され、上からマークされた。それで特に六四の直前はこの道は通行禁止になった。1994年とかそのあたり。私、行かなかったもん。入れないから。(続く) |
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