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円明園を出て、ダンナの車に乗り込むとき、バイクに乗ってやってきた駐車料金徴収者(バイクが必要なほど、広い範囲を管理している)。路上駐車なんだけど、しっかりお金をとられるわけ。ダンナが「これは許可されてやっているのか?」ってはっきり聞いた。そしたら「特批的」(特別に許可されている)って答えたので、さらにダンナが「証拠を見せろ」と。ちゃんとハンコついた「駐車料とっていい」と書かれた紙を見せてくれて、ダンナはその写真まで撮ってたよ。
↑この人。今日の写真はすべて助手席から撮ったもの。 ダンナが昔住んでいた円明園画家村に向かう。バス通りを北へ入る。もう懐かしくて、ワクワクだ。 ↓この左側は「达园宾馆」というホテル。この中に釣り堀があって、日本人留学生数名とダンナとで一緒に魚釣りに行ったことがあったなあ。※この通り。 ↓これが入口。iPhoneで撮ったら、「不能拍照」って保安に言われた。 道なりに右へ曲がると、おおおおぉぉぉぉおおおお。この村の名前「福缘门」と書いてある。私は語学留学と書道留学の間の半年、日本にいて、ダンナに3日に一回くらい手紙(宛て名)を書いていた。だから「福缘门」は本当に懐かしい。 ダンナはこの画家村の中で一回引越しをしているのだが、最後に住んでいたのが、ここから遠くないあたり。でも以前は平屋しかなかったのに、今は二階建ても結構あるし、どこがどこだが、ダンナでもよくわからない。 ちょっと進むと、突き当たりにぶち当たる。 あれ?90年代は突き当たり、なかったのに。この正面、かつてはすべて平屋だった。平屋を壊して、円明園の敷地になっちゃったんだって。民家つぶして、公園の面積が広くなるということだが、そもそも、この一帯はすべて円明園だったんだよね。今の北京大学も清華大学も元々はすべて円明園だった。そう考えると、恐ろしくデカかったんだな。 以下、円明園の説明(wikiより) 1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。 乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。 皇帝による皇帝のための庭園。そんな誰にでも書けることは置いといて、※ 位置的に北京大学、清華大学の近くに現代アートやる、尖った人達が住み始めちゃって、画家村が形成され、上からマークされた。それで特に六四の直前はこの道は通行禁止になった。1994年とかそのあたり。私、行かなかったもん。入れないから。(続く) PR |
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春節で、学校が2月いっぱい休み。ずっとアトリエにいて、敷地から出ない。子ども達はひたすら宿題をやっている。娘が「パパ、どっか行こうよ。上海とか」。私だって行きたいわ。ダンナ「今はどこも人でいっぱいだ」。確かにそうなのよね。全国的に休みなんだから。
そして円明園に行くことになった。小学校の教科書にも出てくる、歴史的意義のある円明園に子どもは二人とも行ったことがなかった。そして、ダンナは円明園画家村時代にアトリエを構えていた。それは私が知り合ったころの話だ。あの粗末で貧乏な住まい。思い出すだに、す、す、酸っぱい。 ↑この右下!!教科書に出てくるところ。教科書を見たい人はここへ→《圆明园的毁灭》(計2ページ)。 |
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娘が日本の大学を受けるって言うから、いろいろ調べているんだけど、今、センター試験に中国語があるのね。ネットで全部見られるっていうのを知らなかった。そしてビックリしたのが、中国語の設問だ。クリックして拡大可。
おかしいでしょ!全部ピンイン。これは26枚のうちの4枚目。もっと見たい人はここへ。中国語ができるかどうか試すというよりは、頭を無駄に多く使わせる問題だ。 次!娘の日本語学習のため、日本で発行された小論文の本を読ませている。本人が読めるだけ読んで、必要であれば、私が解説している。 昔買った中三が読む本。たとえば、「次にあげたテーマのうち、どちらか一つを選び(略)作文にしなさい」。〇充実感 〇信頼感 娘:充実感って何? 私:そうか、それがわからないか。充実しているっていうんだけど、あれ?中国語にもあるじゃない!充实(chōng shí)。 娘:ああ、わかった。リア充っていうもんね。 おいおい!リア充知ってりゃー十分だ。まずは本を読んで、日本語の作文を書かせる段階。 |
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日本へ帰国する日、北京空港にもうすぐ着くというところで、写真を取り損なった。もうあと1kmってところ、高速道路の端にたくさんの車が停車している。すべて迎えの待ちの車だ。空港の駐車料金は非常に高い。つまり空港の駐車場に長くいたくないから、そこで待機しているのだ。うちのダンナも、舅も同じ手を使う。
北京に着いたヒトから電話を受けて、そして迎えに行く。今回の指令は前回と同じ。 私はトランクが出てくるのを待っているところで、ダンナに「着いたよー」と電話した。そしたら、ダンナ「还是老规矩(前とおんなじで)。出発の一番前で待ってろ」。 北京空港は結構うるさい。出発も到着も、その階の外を出たところで、駐車してはいけない。出発の階ではご丁寧にも「降りるだけ」にするよう書いてある。 到着ロビーのある一階からエスカレーターに乗って、出発の階に上がり、外へ出る。進行方向一番前にダンナがいるはずだ。でも奴はいなかった。電話すると、「俺はまだ高速道路だ。すぐ向かう」。本当に長くいられないから、私らを待たせるくらいの時間でやってきた。 で、空港からそのままアトリエへ。毎年私と子どもが春節を無視して、日本へ帰ってしまうので、じいさんばあさんはもうひとりの息子のいる広州へ行ってしまった。 飛行機のチケットとるの、大変よ。子ども達の学校がいつから休みかわからないから。特に今年は息子が受験の年で、終業式が終わっても授業があるというので、手配できなかった。そうして遅くチケットを問い合わせると、もうあまり選べない。1週間の帰国で3つ日程を言われたが、出発が遅いほど高い。しかも一人2000元も違う。とにかく安いのを買って、とっとと北京に戻ってきてしまった次第だ。 1週間北京を不在にし、変わっていたことといえば、ダンナのランボルギーニ(仮称)のナンバープレートが盗まれていたことくらいかな。単なる嫌がらせか。これから「春联」を私が筆で書くんだけど、剥がされる覚悟よ。 |
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