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中央美术学院美术馆へは初めて行った。ダンナが「あれはJiqixinの設計だ」。Jiqixinは磯崎新。日本の建築家が設計したことを私は知っていた。美術館の前は何度も通ったことがあって、妙な建物だということも知っていた。 ダンナ曰く「设计挺好,不过不像美术馆,像会所。美术馆应该是方的。这种设计里摆放艺术作品,会抵消掉」。美術館の建物というのはもっとシンプルで四角いほうがいい。外も芸術的、中の作品も芸術的、それでは相殺されてしまう。これがダンナの言い分だ。 チケット切って、一階の階段を上がるとき、ダンナが「おお」。私も「ああ」。懐かしい看板だ。 私が在籍していた時、校舎は王府井にあった。校舎の一番南に「陳列館」があって、そこで唯一私が出品したのは、日本人書家が主催した日中書道展。校舎はすべてこの美術館がある場所へ引越し、元の陳列館は元々隣にある協和医院の所有になってしまった。 美術館という名になった今、非常にデカくなり、複数の展覧会が同時開催されている。
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日曜日の夜ダンナが帰ってくることになっていた。そしたら午後早めにここに着いて、「美術館へ行こう」。えええ?宿題たくさんあって終わらないよー。「宿題ばっかりやっているのはよくない。展覧会は見たほうがいい」。いや、宿題のほうが大事だし。でも、結局家族総出で出かけた。 ダンナが教えてくれたのだが、ボイスは顔によく油を塗っている。それは二次大戦でドイツ軍人として参戦していたとき、ソ連に撃墜され、遊牧民に助けられた。そのとき、油を塗って体を保護してもらい、命が助かったことから来ている。 この展覧会、11月までやっているから見るといい。行く前に日本語でボイスのことを調べてから行ったほうが理解が深まると思う。いきなり行くとわかりにくい展覧会だから。
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自力で車庫を壊した齢70の夫婦は多少の大工を雇い、家を一軒建て始めた。
7月28日 8月22日 アトリエの冬は寒い。いかんせん広すぎて、部屋が温まることはない。床暖房にしたのは足が冷えすぎないならいいという策なんだけど、もっといい方法は無いか?とじじばばはいろいろ考えて、オンドルを思いついたらしい。
後ろから見たらこんなんだった。 あと窓とドアがついたら、外側は終わりかな。 おまけ:オンドルの中国語は炕(kàng)。 |
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もし私が入院したら、暇だから、友達に来て欲しい。しゃべりたい。それが私だ。でも、ダンナは真逆の人。いつ行っても「早く帰って、晩ご飯作れ」。 |
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ダンナの手術日。午後からとはわかっていたが、何時からかわからない。当日午前中ダンナに電話で聞いても、「午後」としか答えない。私が2時に着いたとき、画家仲間5.6人、ばあさんがすでにいた。 3時頃、ストレッチャーでお迎えがやってきた。横たわるダンナ、何だか可哀相。一般用と病院関係者用のエレベーターが別のところにあるので、一緒に乗れず、ダンナは5階へ。 日本でも中国でもドラマで手術室といえば、ドアの上に「手術中」という文字があり、ランプがつくと手術中、消えて「あ、終わった」と外にいる人がわかるしくみ。廊下には長椅子があって、家族が不安そうに待っている。そういうイメージがあった。 だがここは中国。手術室はいくつもあって、廊下はほぼ真っ暗。そのすぐ外は立ち入り禁止。同じ階に北京駅の待合室みたいな広い部屋があり、そこで家族、友人は待機する。テレビがあって、電気も明るいが、ゴミゴミしていて、そこに長時間いる気になれない。 手術は2時間以上かかる。「若いのが待合室にいますから、おかあさんとおねえさんは病室にいてください」。そしてばあさんと二人で病室へ。ばあさんと二人って言ったって、ダンナが手術中に何しゃべんの?やがてばあさんが「これ待ってたら、子ども達帰って来ちゃうよ。アンタもう帰りなさい」。ダンナが手術だというのに、とっとと帰る私。 |
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私はダンナにほぼ電話しないけど、ダンナからは2.3日に一回は電話がかかってくる。もう何年も何年も。それは別居しているから、わてら母子家庭の安否確認。 5月のある日。電話口で改まって「你看好孩子」(子どもをちゃんと見ろ)。いや私、毎日ちゃんと面倒見てますがな。あまりにも強調するので、遺言かと思った(おいおい)。
それからちょっとして、「入院、手術することになる」と告げられる。具体的な病状を聞かされても、冷静な私。だって命に別状ないし。
ダンナったら私に内緒で5月下旬から入院していた。たびたび外泊(というかアトリエへ帰宅)していたので、両親にもバレなかった。検査をするのは昼間なので夜は病棟にいなくていい。病院、退屈だし。入院し続けたのはベッドを確保するという理由から。
入院したとちゃんと教えられたときも「病院には来るな。とにかくおまえが倒れたら困る。子どもだけを見てればいい」とはっきり言われた。私が初めて病院に行ったのは6月で、ばあさんと一緒。
やや広い二人部屋の奥のベッドに横たわるダンナ。画家村の友人達が6人くらい来ていた。私とばあさんが入るや否や、6人はさささっと立ち上がって、2つしかない椅子が私らに譲られる。6人の中で年長者が若い人に「ほら、リンゴ剥いて」と言い、リンゴが2つ剥かれ、それぞれ私とばあさんの手の中へ。なんか私、やくざの親分の嫁のような気分だった。
私は5月末から展覧会の場所移動、引越し、いろいろやることがあった。いつ行っても、友達にもばあさんにも言われた「子ども達が帰ってくるんだから、早く帰ってご飯を作りなさい」に甘えた。
ばあさんが「何食べたらいいか、何食べたらいけないか。おとうさんがインターネットで調べているけど、あんたも調べなさいよ」。帰宅して日本語で検索するも、涙で文字が見えない。悲しくて冷静になれない。
先週退院したのだが、病気のことは誰にも言わなかった。それは私が悲しくなるから、これに関して私に何も言わないで欲しかったから。入院に伴うばあさんネタを披露する義務が私にはあるし(あるのか?)、退院して気持ちに少し余裕が出てきたから、公開することにしたが、こうやって字を打っていると、やはり胸は痛む。二回の手術は成功したし、ダンナも落ち着いているけど、体の機能が弱くなったのは確か。あ、でも、ばあさんネタね(結局そっちかい)。 |
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病室は二人部屋だった。トイレ、シャワーがついてる部屋で、そこにはゴミ箱があったが、病室にはなかった。 |
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