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这是80年代末,90年代初的北京 (計4ページ)
・面包车(面的)10kmまで10元。 ・计划生育の広告が多かった。 ・木製乳母車多かった。 ・人々の服の色は地味だった。 80年代、90年代を知る人、コメントください。 |
私が留学していた90年代、中国人と外国人の使う貨幣が違った。たとえば、私は日本円の現金とトラベラーズチェックを持っていたのだが、それを銀行で中国元に替えると、外貨兌換券(FEC)を渡される。兌換券に対して、中国人が使うのは人民元。人民元だと、ドル等の外貨に両替できないし、北京だと友誼商店なんかは外貨券しか使えなかった。今調べたけど、兌換券は1979年から1995年まで流通していた。 私ら留学生、それでなくても中国語が上手じゃなくて、外国人だとバレて、ぼったくられるのがイヤなのに、兌換券を出すと、外国人であることがバレバレだ。当時は闇の両替所があって、そこへ行くと、1:1.5で、お金が多くもらえるので、皆さんよく利用していた。私が覚えている場所は語言学院の門の外の現像屋、三里屯のバー街の西側は小さい店が並んでいたが、そこの数軒などなど。 当時は観光地に外国人料金があって、兵馬俑は30倍じゃなかったかな?だれか覚えてないかな?故宮もかなり違った。だから、日本人は人民元を持って、中国人のフリをして、中国人料金を利用したりした。外国人とバレないアジア人でよかったと思った。 1993年頃、一人で大連へ旅行に行き、海の近くのケーブルカー(だったかな?)に乗るときのこと。中国人料金と外国人料金の別のほか、片道か往復かを余儀なく選ばされた。それって、喋らなきゃいけないんじゃないか。人民元を出して、緊張して「单程」と言った。この[dān chéng]の発音でバレないかヒヤヒヤしながら。 古い皆さん!そういう思い出をアンケートに書いて欲しい。私、この大連の思い出しかない。そんなはずはなく、思い出したら、書き足す。 質問:外貨兌換券、外国人料金に関して思い出をどうぞ。 パソコンで見ている人は横のバーから、携帯等で見ている人はここから。 |
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作者は新聞記者だった人なのだけど、文章が実に読みにくい。故意になんだけど、接続詞がない。文章をスパっスパっと書いてるつもりなんだろうが……。 |
ヤフー知恵袋でこんなん見っけた→1980年代・90年代に北京に行った事のある方、体験談を 以下、黒字がある人の回答。緑色は私の弁。
○ 天安門の前の道(長安街)を、横断歩道で渡れた。 ○ 小学校教師の月給は100元程度、タクシー運転手は600元。車を運転できる=修理もできる。歴史博物館(今の国家博物館の館長は文部大臣クラスだが、運転手のほうが威張っていたと、92年に聞いた。) ○ 市内電話をかけていると話中でも「長距離電話を繋ぐから、電話を切れ」と交換手が命令してくる。 ここ数年、様々な「市場」が閉店したり、引越ししたりしている。最近では「北京地安门天意市场12月8日撤市」(ニュースここから)。私は行ったことなかったから、思い入れはない。崇文门菜市场、东单菜市场もとっくになくなり、たまに文房具を買っていた北京红桥玩具市场もこの10月に閉店した。红桥のほうもなくなるというウワサがあるけど、本当かな?雅秀はごちゃごちゃ感がなくなったし、時代とともにこうなっちゃうのは仕方がないと思っている。 今日王府井に行ってきた。 王府井大街。 百货大楼。中は小綺麗になっている。10年以上、中に入っていないけど。 北京穆斯林大厦。穆斯林と関係ない店が入っている。 外文书店。 中の古さ加減は変わらないなあ。 旧中央美术学院陈列馆。今は协和医院の所有。 协和医院西侧。 王府井书店が本日の目的だったのだが、地下はレストラン街になっていた。 ドーナツ屋があった。1個6元から。2個買った。ドーナツは油っこいから好きじゃない。これはあまり油っこくない。でも食べないけど。 90年代懐かし~い情報、募集! |
熟女10人のランチに参加するため、まず地下鉄「王府井」駅で降りる。左はドトールじゃなくてドドールがあるデパート。
180度後ろを見る。 デパートの南の通りを西へ。つまり左は「北京饭店」。ここを通るのどのくらいぶりか覚えていない。この右側はデパートと、建物は同じ色だが、西の方は「国际会展中心」になっている。このあたり、90年代は居住区で平屋ではなくて、2階建て(3階建てだったかな?)。1994年、徐冰が個展(パフォーマンス)をやったとき、ダンナに連れられて、私も見に行った。徐冰はダンナが美大に在籍していたときの版画学科の先生。中国の現代アートといえば、まずはこの人が挙がるくらい、著名な画家。パフォーマンスは当時かなり話題になった。歴史に残る作品だったと言ってもいい。オスとメスの豚をいっしょにしたら、することは一つ。そんな内容を94年に中国で上演(?)したのでビックリした。この記事を見て思い出した。会場は「翰墨」。現代アートの先駆けだった。突き当たりをちょっと右(北)へ行くと、位置的には「贵宾楼饭店」の北に当たり、以前からレストランがいくつかあった。厚かましくも銀座と呼ばれる王府井から徒歩ですぐのロケーションであるにも関わらず、ぱっとしないエリアだった。車が通る大通り南河沿大街より一本東の道晨光街を北へ。左側は雰囲気はまったく変わっていない。 ほら。 これこれ!雪山嬢。昔からこうだよね。高架下って感じの。 この通り、左は「懐かしさ」しか感じないのに、右が高級マンションになっていた。私らは王府井大街の東に住んでいて、王府井大街を突っ切って、西側のこのあたりに御飯を食べに来たことがよくあった。目的地がどこだったか、まったく覚えていないので、雪山嬢、何を食べていたのか覚えていたら、教えて欲しい。現在の地図を見る限り、くねくねした細い道(わかる?王府井大街から西、北、西)、あの道が無くなっている。 北上。東(大甜水井胡同)を望む。なんか建ててるなあ。 留学時代、こんな西北へはほぼ行かなかった。 皇城根遗址公园という公園になったのは2001年のこと。 この日のランチはさるお方の快気祝い。その人が中華が食べたいといい、幹事が北京料理で評価の高い店を調べて、灯市口西街を東に入ってすぐにある「味惠美」にしたのだが、住所が「康健胡同2号」で、「康健胡同」は「健康」みたいだからと。 北京ダックも頼んで、一人60元くらい。みーんな「美味しいね、この店」と。 食後、老舎記念館へ行こうとしたら、工事中で、7月1日から参観できると貼り紙がしてあった。 さらに東へ。 王府井大街に戻って、南下。すぐに「王府井天主堂」が見える。この教会、こんなに露出度高くなかったよね?90年代はどうなっていたんだっけ? このすぐ南にMaan caféがあって、二次会。北京に支店の多いカフェなのだが、私は初めて入った。本日のコーヒー19元がアメリカかっ!とツッコみたくなるくらいデカかった。
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今は留学生でも携帯電話を持っているんだろうから、学生宿舎に電話は要らないよね。90年代、私は北京の二つの大学に留学したが、どちらも部屋ごとに電話がついてはおらず、一階に一つ電話があって、鳴ると誰かが出る。日本人以外の外国人が出るかもしれないから、かける日本の親も英語で最小限は言えなきゃいけなかったり、または「502(wǔ líng èr)」とか部屋番号だけは中国語ができるようにしてあったり、、、だったんじゃなかったかな。 ・一曲でいいならたとえばここへ→「我愿意」(9分)。 |
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