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コメント欄でお兄様とお姉様が楽しそうに盛り上がってるから、本文に書かざるをえない。
私、90年代ネタ用に本棚からガイドブックを引っ張り出してきたよ。 JTBの『中国 自遊自在』(1998年初版発行 1991年改訂)と昭文社の『中国の旅 北京 天津』(1992年発行)。 この二冊に載っている日本料理店は、白雲(中日友好賓館)、五人百姓(北京飯店)、桔泉(崑崙飯店)、中鉢(建国飯店)、みつこし(発展大厦)、五合庵(天橋賓館)、安具楽(新僑飯店)。 ほぼホテルなどに入ってる店で高級和食って感じだったが、一つだけ居酒屋があって、それが「居酒屋兆治」。発展大厦の向かいにあった。店主の田端さんは映画『竜二』のモデルとなった人で、90年代半ばに北京で亡くなっている。元ボクサーだったはず。 「居酒屋兆治 北京」で検索したら、貴重なレポートが。 「現代中国における日本食伝播の歴史と力学」 北京で一軒目の日本料理店は1960年代後半にオープンした「中野」だが、数年で閉店。次に1977年に北京飯店内にオープンしたが、店名は不明。1987年にあったのは、(上記の店を除き)青葉(楽游飯店)、ふじまつりばやし(漁陽飯店)。北京は南方と違って食料調達が困難で、ブロッコリーやレタスがなかった。 私が留学するとき「北京は冬は白菜しかないよ」と脅されたものだ。実際、91年に北京に来て、学食でも外のレストランでもいろいろな野菜はあったが、今ほどいろいろではなかったなあ。ブロッコリー、レタス、そんなイキな野菜なかったかもね(よく覚えてないんだけど)。 さて、コメント欄に「ダイヤモンドってありましたよね」とあった。なつかしいいぃぃぃぃいいぃぃ。それは洋食だよね。西単にあった。キッチンって感じだった?今回は和食に関して思いの丈をお書き込みください。 以下ネットから拾ってきた。 ・北京餐庁情報:見聞き驚き食べ歩き1994年 五人百姓/鴨川/居酒屋兆治/富士屋/高橋軒/三越 ・中国狂の歌 1991年8月の旅行記 PR |
五人百姓!と聞いただけであの薄暗い入口が脳裏に浮かぶ。高いのでいつも注文するのは鍋焼きうどんだった。
今日、奇跡的に96年のスケジュール帳を発見。(もちろんみどりさんの名前も出てくる。見たい?) この年2月にD社の人に「ラクダ亭」でごちそうになっていたことが判明。 ここ和食だったかなぁ。企業派遣の日本人のたまり場だった。三環路付近だったと思う。 あとは「吉野家」。北京で食べ過ぎて日本に戻ってからは一度も行っていない。
【2011/09/20 20:41】| | yukiyamapost #9b3a05a2b7 [ 編集 ]
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私90年代は、お値段もかなりするので余り行けなかったけど、94年か95年か、その頃に師範大学の傍、北太平庄に8番ラーメンってあって、そこはしょっちゅう行ってました。北京の日系ラーメンの魁だったのかな?
他に、和食じゃないけど洋食が食べたくて俄罗斯餐厅へも行った。パンがただの食パンだった・・・。
【2011/09/20 20:44】| | マリズin明日台風が来る関東 #5804baaddf [ 編集 ]
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思わず駱駝亭に反応。懐かしい。居酒屋兆次もありましたね~。色々レストランもあったけど、…忘れてしまいました。特に名前を覚えるのが苦手なので。三環路沿いには結構あったよね。五道口にも学生相手の安い日本料理屋さんがあったし。…今もある?
【2011/09/21 09:32】| | nuu #4e53dab6f5 [ 編集 ]
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五道口のとんかつの店「ばんり」だっけ?あれあるかな?まだ。
蘇州街の辺りにラーメン屋もあったけど、名前がわからない。 もうないだろうな。
【2011/09/21 21:29】| | マリズin台風通過した農村 #5804baaddf [ 編集 ]
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86年~87年、天津から北京に来る時は、毎回北京駅から歩いて新僑飯店の“サッポロライオン”という店に行った記憶が…。
日本の同名の店との関係は知りませんが(不勉強ですみません)、カツカレーとハムサラダが天上の御馳走のように感じたものです。 ちなみに天津では85年まで冬は本当に白菜オンリーだったらしいです。86年でもトマトやキャベツ、キュウリなんて冬にはありませんでした。 …あ!これって90年代ネタじゃなくて80年代ネタですな。
【2011/09/22 19:03】| | 二鍋頭 #5128ef451a [ 編集 ]
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yukiyama嬢:D社の駐在員とその友達にはさんざんご馳走になったからなあ。私と○ちゃんが「お支払いします」って言っても「黙れ、貧乏留学生」とか言われて。吉野家一号店は王府井にあって、どんぶりがどんどん盗まれていくって話だったよな。
マリズさん:8番ラーメンというのは私が海淀区を離れてからできたので、行ったことなかった。 nuuさん:駱駝亭は駐在員がお金出し合って、理想の居酒屋を作った店だったんだよね。長虹橋から東、今もあるマクドナルドの東にあった。五道口は全然行かないから知らん。でも93年頃、私ダンナとその他の皆さんで和食屋行ってる。 再びマリズさん:ばんりの店長はアタシの留学時代の友人です。ずっと会ってないけど。蘇州街も全然行かなかったから知らないなあ。 二鍋頭氏:待ってました、出番を。80年代ネタ是非お願いします。私が91年に新僑飯店に行ったときはサッポロだけど、ライオンだったかな?ビーフシチューがあったんですよ。だから洋食系だと記憶しているんですが、和食もあった? とにかく今と違って、和食は高かったし、留学生は企業から派遣されて語学留学している人以外はだいたい貧乏だから、食べなかった。今の留学生は贅沢だよ。私らはいろんな意味で後進国で留学してるんだからという覚悟があった。
【2011/09/23 14:19】| | みどり马克西姆之前,京城只有老莫、新侨饭店和北京饭店等几家西餐厅 #55feb70f68 [ 編集 ]
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新僑の店、毎回カツカレーとハムサラダばかり食べていたので“和食系メニュー”はよく分かりません。御指摘の通り、洋食系だったのかもしれませんね。
みどりさんも書いていらっしゃる通り、当時は日本料理は高くて企業派遣以外の留学生にとっては高嶺の花でした。そんで、《●安●●件》の時に某マスコミでアルバイトしたら、バイト先の拠点が北京飯店だったので毎日《五人百姓》で食事ができて、本当に嬉しかったのを覚えています。
【2011/09/23 17:57】| | 二鍋頭 #5128ef451a [ 編集 ]
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なつかしい本ですねぇ。JTBの『中国 自遊自在』の表紙を見て懐かしさでいっぱいになりました。僕はこの本は持ってなかったけど、同学で持っている人はたくさんいましたね。昭文社の『中国の旅 北京 天津』にしても然り。
僕が持っていたのは、ダイヤモンド社(だったかな)の『地球の歩き方(中国版)』でした。こちらの方の表紙は忘れてしまってますけど、でもこの頃の『地球の歩き方(中国版)』の表紙には、「1日1,500円で食事と宿泊ができる中国の旅」という内容の文章が載っていました。確かにこの頃中国国内旅行をして、ホテルと食事を贅沢しなければこの金額で過ごせましたよね。まぁ僕は本に書いてあるような挑戦的な旅行はあまりしませんでしたけど。(ただ住んでいるだけでも十分に刺激的でしたからね、当時の中国は。現在の中国は全く知りませんけど) 地球の歩き方、と言えば、当時、中国留学に関する本といえば、秦さんという人が書いていた「中国留学」というのがあったくらいで、ほかに留学に関して詳しい情報が載っている本がなかった。 そんな中、地球の歩き方の出版社が、中国留学の本を出すというので、○○社の橋本さんという人が、北京師範大学をメインにしたような内容で、中国留学についての取材をして93年だったかな、中国留学本を出版されました。 本で使用されている写真のほとんどは、北京師範大学の写真で、中でも本の冒頭にでてくる写真は、留学生宿舎の前庭に当時の留学生がずらりと並んだもので、見知った人ばかりで大変うれしかったのを覚えています。 その後本は、改訂を重ねるたびに使用される写真も変わっていき、初版の写真はほとんどなくなってしまいました。誰か持っていないかな、当時の本を。 今書店に行けば、中国に関する本は山ほどありますが、当時は非常に少なく、特に地方に住んでいた僕など、留学前に情報を仕入れたくても本がなく、先ほどの秦さんの「中国留学」と出版社名は忘れましたが、北京日本人会が協力して書かれたような北京生活に関する本だけが僕のバイブルで、留学前には暗記するくらい読んでました。 その本にも当時の北京市内にあった日本料理の店のことが書かれてあったと記憶しています。 懐かしいですね。ほんと。
【2011/09/24 03:05】| | 功夫man #92d92546b1 [ 編集 ]
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和食店じゃないけど、普段は宿舎の食堂や大学近辺の餃子屋とかで食事していて、たまにマンションに住んでいるような同学のお宅にお邪魔して食事するのが非常にうれしかった。
建国門にあった国貿裏のマンションに住んでいたご主人が商社ニチメン勤務の○根さんのお宅にお邪魔して、○根さんや女子留学生たちが作ってくれた料理(から揚げやポテトサラダなど)、おいしかったなぁ。○根さんのご主人は、北京語と広東語がペラペラだったな。 マンションの場所は忘れたけど、三和銀行派遣の留学生のお宅には、ナンパ師で女性にはめっぽうだらしなかった○君と一緒にその留学生の誕生日祝いに行き、○君お手製の豪華な料理をご馳走になりました。おいしかった。 長冨宮裏のマンションに住んでいた○海さんのお宅にも何回か食事にいきましたね。○海さんは当時日本航空に臨時職員として採用されていて空港で働いていましたね。その後、留学の本で紹介されている記事を見たところ、北京の出版社とかに転職されているとのことでしたけど、今はどうされているのでしょう。当時僕の中国語勉強の目標の一人だったんです。彼女くらい話せるようになろうと。(中国人と結婚されたとか) マンション住まいの方々の部屋は、僕ら貧乏留学生にとってはセレブの住まいでしたね。そこで食べる日本と同じような食事は最高でした。
【2011/09/24 04:31】| | 功夫man #92d92546b4 [ 編集 ]
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みどりさん(・・なのかな?)、はじめまして。
北京の日本料理屋ですかぁ・・・フムフム・・・・ では、まずは白雲物語を・・・ 私は84年から86年にかけて、天津の塘沽というところにいましてね、 な~んもない、その塘沽から北京に行くのがたった1つの楽しみ。 でも、3・4ヶ月に1回でした。 北京へ行くとレンタサイクル乗り回し、白雲で日本食を食ったものでした。 もう、いつも満員でしたね。勿論、日本人ばかり。 当時、北京にはココを含めて、日本料理屋はたった4つ。 ココが、幾分安目でしたので、一番人気だったはずです。 当時から学会系だという、ことは皆さん知っていたのかと思います。 97年に、まだやってるかを確認のために、久しぶりに訪れてみましたら、 まだ元気だったですね。でも客は、半分近くが中国人。 私らはチマチマ飲み食いしていたんですが、隣のテーブルでは、 金持ちっぽい北京人(だと思う)が、刺身のどでかい船盛りに、 1升瓶の日本酒を、どんとテーブルにおいて、豪華にやっていたのを見て、 ああ、時代は変わったな、と思ったものでした。 |
みどりさん、次は高橋軒物語です。
高橋軒は、なんでこんなところにと言う感じの前門大街にありました。 96・7年頃だと思いますが、「るるぶ北京」でも紹介されていました。 「るるぶ」が当時あったかどうか、なにせ、JTB系の旅行雑誌でした。 私はココに3・4回行きましたね。 何を食ったのか、ビール飲んで、つまみを頼んで・・・ フカヒレ入りラーメンも食ったのかもしれません。 なんで、3・4回も・・・と言いますと、店の主人の高橋女史に興味があったからです。 彼女が店にいますと、よくおしゃべりさせていただきました。 何故、彼女に興味、かと言いますと・・・ いや実は、彼女の北京の住処が、私の持ち物だったからなのです。 オンボロ・マンションでしたが、当時北京には、外国人が住むところが少なくてね、 2000ドル/月で貸していましたね。3年住んでいただきました。 勿論、彼女は私が家主であることは知りませんでした。 部屋を管理してくれている人に聞きましたら、彼女には当時カナダ人の ボーイフレンドがいたとか・・・ また、彼女のお父さんが、仙台かどこかで、フカヒレの商売をやっていて、 中国にも輸出していて、彼女も、北京に留学していて・・・ という絡みで、店を出したとか。 でも、やはり3・4年で消えてなくなってしまいましたね。 さて、私のオンボロ部屋ですが、彼女が出たあとは、ドンドン家賃が下がっていき、 最終的には(2007年頃)、家賃は1500元/月になってしまいました。 2000ドルの家賃が1500元・・・つまり10分の1になってしまったということです。 そして、その時に売ってしまったのでした。 売値は90万元。購入時の価格(12万ドル)と一緒でした。 しかし、売ってから2年後には、160万元になっていたとか・・・ |
みどりさん、もう1つ・・・
その前に、上の緑文字は読みにくかったな・・・ もう1つは養老乃瀧物語です。 養老乃瀧は居酒屋チェーン店。 80年代90年代初頭までは勢いがありましたが、今はあまり見かけない。 ここは学会系と言われていますが、それは定かではありません。 1号店は横浜伊勢佐木町の裏道、2号店は横浜・野毛にありました。 1号店にも行きましたが、2号店は毎週、馬券を買ったあとに行っていましたね。 95年頃だったか、そこで、小柄だけど身なりのイイ爺さんに毎週会いまして、 彼から、昔の上海は良かったぜ、奇麗な姉ちゃんと踊ったもんだ、なんてな 話を良く聞かされました。そんな私が、上海に97年から住み始め、 未だに住んでるってのは、そんな因縁があったからなのかも・・・。 さて、日本での養老乃瀧が下火になってしまった96・7年頃に、 養老乃瀧は中国に進出したのでした。 今でこそ、上海ですと、白木屋や和民など、進出していますが、 養老乃瀧は、そのさきがけだったんでしょう。 まあ、それは、もしかしますと、学会系だったからなのかもしれません。 上海では復興公園に店を構えました。 北京では西直門でしたね。 どちらも、日本人相手というより、地元に受け入れられるところを 目指していたようですが、当時は、まだ、日本食、一般的でなかったですからね、 3年くらいで消えてなくなってしまいましたね。 客は、どちらも、日本に留学していたとか、日本生活をしてきた人、 ってのが多かったですね。 |
井上さん、熱烈歓迎!
ご丁寧なコメント有難うございます。『白雲』はありがちな高層ホテルの中でなく、四合院の中にあるという雰囲気がよかったと思います。 『高橋軒』!ありましたね。井上さんが名前を挙げなければ、一生思い出さなかったことでしょう。入ったことはありませんでしたが。住宅は近年高騰していますが、そういうふうに値が下がるとは。2007年で90万元、2009年で160万元ってことは、今はもっとあがってますね。うちは95年に購入した家ですが、現在5、6倍になっています。あのとき親にでも借りてもっと買っておけばーーーー! 『養老乃瀧』は私が働いていた会社が近かったので、たまに行きました。日本料理屋が少しずつ増えていったとき(90年代半ばでしょうか)、どこも料理の量がとにかく少なく、中国人経営者は特に「少ないのが和食だ」と認識しているのかと思うほどでした。95年あたりで「日本料理屋がオープンしたら行く」を実行している駐在員が「最近どんどん増えるから追いつかなくなってきた」と言っていました。つまりそれ以前は追いついていたんですよね。 最近上海から北京に駐在になった方が、「北京は日本料理屋が少ない」って。えええ?「上海はもうこのあたり全部日本料理ってところがあるよ」って。比較の問題でしょうが、以前を知っている私には「北京は日本料理がたくさんある」という認識ですが。
【2011/12/16 08:42】| | みどり三峡(郦道元) #55ff3dd4a6 [ 編集 ]
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みどりさん、どうも。
日本料理屋ですが、やはり上海のほうが多いでしょうね。 上海ですと虹橋地区とか古北地区とか更に西側の虹梅路周辺とかに多いですね。 私の住む打浦橋地区は、上記地区よりは全然、上海の中心部にあるんですが、 4・5年前までは日本料理屋は1つか2つしかなかったんです。 しかし、今は中心部にも、ドンドン増えてきています。 北京ですとやはり燕莎地区とか新源里辺りが多いんじゃないんでしょうか。 でも、北京に日本料理屋がボツボツ現れた80年代半ばであれば、 北京のほうが多かったのかもしれません。 それが逆転したのは90年代半ばなのかと。 私が95年頃に北京で買った家というか部屋は外銷房と言うヤツでした。 当時、外国人はこの物件しか買えなかったんです。 もともと、外国人価格であったものを、間に代理業者2つを通して購入したものですので、 更に価格がアップして、 当時の同仕様の内銷房(外国人は買えない)の3倍くらいになっていたのかと思っています。 当時、30人くらいの日本人が私と一緒に、その金都公寓というオンボロマンションを買いました。 当時の購入者の中には神戸華僑総会の名誉会長の林同春さんもいました。 当初は、高い家賃収入が入ってきたんですが、 その後、外国人用マンションがドンドン増えて、金都公寓は嫌われていき、 ドンドン家賃が下がっていったのでした。 そして物件価格も、実勢価格に近くなっていき、03年か04年には、 最低価格になってしまいました。 購入時価格の3分の1になってしまいましたね。 その最悪時期に、30人の日本人購入者のほとんどが見切りつけて、 売却してしまったのでした。 私も、35万元で売ろうと決心して、北京に行ったんですが、 うまく行かなくて、売るのをあきらめたのです。 そうしましたら翌年に52万元で買うという人が現れ、売買契約まで行ったんですが、 そこで、待てよ、流れが変わって来たのかも、となり、その契約を違約金払って 解約したのでした。 そして、更に翌年だか翌々年には、今度は90万元ですよ。 それが、07年だったかな・・・・ですから思い切って売ってしまったのです。 しかし、売却半年後には120万元になっていたのです。 今は、どうかというと、去年よりは下がっていて、160万元のようです。 最高では180万元まで行ったようですね。 みどりさんが95年に購入したと言うのは、まず内銷房物件だと思いますね。 当時の外銷房物件は上海でも北京でも、ドンドン下がって行ったのです。 当時の外国人購入者の90%以上は、失敗したなと感じたはずです。 今、私はまだ北京に3つ持っていますが、 まあまあ、やっとホッと一息つけるかな、という感じになっています。 上海と北京の住宅価格を比較しますと、まだ北京の方が安いですね。 しかし、同じ300万元の物件ですと、 上海ですと家賃はせいぜい4500元から5000元でしょうね・・・ しかし、北京ですと確実に7000元の家賃設定できます。 ちなみに、私が今、上海で住んでる家は97年に購入したもので、内銷房でした。 つまり上海人の妻名義です。 当時は、まだ外国人である私は外銷房しか買えなかったからです。 同じ敷地に、同じ開発会社、同じ管理会社の、同じ造りの外銷房があったんですが、 そちらは価格は平米当り1400ドル、 しかし、内銷房の方は、平米当り6700元。半分の価格ですよ。 私の部屋は124平米の2LDKで購入価格は83万元でした。 14年後の今は、その5倍近くの400万元になっています。 同じ仕様の外銷房も、今は同じ価格。 95年当時に外銷房を買った外国人は、皆、バカを見たということです。 ながながと、失礼しました。 |
戦後(1945年)以降、北京で最初の日本料理屋は”和風”(元の東安市場内)で1960年代、その次が1981年の”白雲”(創価学会系)、三番目が建国飯店内に出来た”中鉢”で銀座のママさんの経営です。当時の駐在員はまだ生きております。
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井上さんの書かれた内容を読んで、へええって方は多いでしょうね。外国人の名義だとマンション購入は高いから、中国人の友人名義で!なんて人もいました。でもそれは勇気の必要な行動であって……。
生き字引の松本様、コメント有難うございます。どこぞのサイトに書いてあるのは間違えということですね?昔の東安市場、懐かしいです。先月1991年留学組で集まったとき、友人が「東安市場に横に10個くらいホーローの洗面器が壁に展示されてて」と言ったのですが、私はまったく覚えていませんでした。
【2012/06/02 14:01】| | みどり洋红マゼンタ #55ff3d83d0 [ 編集 ]
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