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私が留学していた頃、中身は大学なんだけど、校名が「大学」でなく、「学院」だったところがあった。私の認識では、中国の「大学」はユニバーシティーで、「学院」はカレッジ。後に、全国的にたくさんの「学院」が「大学」に改称していった。「北京語言学院」という名だった「北京語言大学」もその一つだ。1991年の時点で、日本人留学生が多く、私が留学するより前に高校の同級生が留学していて、よく訪ねて行ったものだ。 通称「語言」(ごげん)は学生数も多く、外国人が多いから、学食が私の在籍していた大学より充実していた。プリンがあったのよね。行ったら食べてたなあ。宿舎はあまりよくなかった。私の同室だった日本人(中国語で同屋。tóng wū。roommate)と、高校の同級生のところを訪ねたとき、同屋が「うわー、ここのベッド、病院みたいだね」って。おいおい! 先日知った。その語言の東京校がこの春開設される。ホームページはここへ。AO入試があるな。HSK3級以上ってレベル低すぎ?中国に住みたがらないヒト多いから、そういう手に出たかー、と思った。 PR |
ずっと前に神田だったかに事務所だけあったような?
数年は北京で過ごして、残りは日本でだったかな? それとも、留学の為の事務所だったかなぁ~? 忘れちゃったなぁ~。 HSK3級以上なら、私でも行けそうだな。 私の最初の汉语课本は語言学院出版だったらから、日本人留学生の鈴木さんの宿舎が8号楼とか出てきた。実際に友人が留学してたので忍び込んでみたりしたなぁ~。確かにベットは微妙だった。 瓶入り酸奶を飲んだり、敷地内で洋服を作ってくれる店があったり、本屋さんもあったり、換金(正規じゃない店も外にあった)も出来た。 東京だけじゃなくて、是非留学してほしいけどね。 まあ、今じゃ、あの頃の不便さはないだろうけど。
【2015/02/27 12:47】| | マリズ #5804baaddf [ 編集 ]
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今じゃ考えられないほどの不便さでしたね。でも、その不便を乗り越える過程で中国語も鍛えられたし、精神的にも強くなった、と思います。
現地の空気を吸い、現地の物を食べ、 現地の人と喧嘩して、 ね。 でも今なら空気を吸ってたら病気になるんでしょうか… あぁ懐かしき90年代。
【2015/02/27 15:52】| | 功夫man #58273f42b5 [ 編集 ]
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なつかしー。布団めくったらアミしかないベッド。
そして学食。いつも3番のミートボールトマト味を食べていました。 自分で作るときは電熱器を使って部屋か廊下で。 広い敷地と緑の多さは快適でした。 その後美院に移った時はアスファルトの運動場ってなんだよー、と思った。
【2015/02/27 17:59】| | 2月乗り越えたぞユキヤマ #28a3f4f7a9 [ 編集 ]
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またまたまたまた!マリズさん!3級とか止めてくださいよ。仕事で流暢な中国語使ってんじゃないですか!語言も東京に事務所あったんだ?北京外国語大学(かつては学院だった)があるのは知っている。私が語学留学したとき、日本の旅行会社を通して行ったけど、語言は選択肢になかった。正規じゃない換金屋(写真屋とか)のために、他大学から語言の近くに行っていた人は多かったなあ。あの頃は換金屋は三里屯にもあったなあ。★確かに語学をやるなら、住んでみてほしいよね。
功夫man氏、今は本当に便利ですね。この10年くらいで留学している人達、北京ならでは醍醐味が味わえないと思う。あの宿舎で日本から誰かが日本からの船便届いたら、「今日はカレーパーティーだ!」って。「うわあ。日本のルウだ!」って。私は特に初めの半年日本人で群がりすぎていたのは反省しました。★「今なら空気を吸ってたら病気になるんでしょうか」って、日本のメディア信じすぎですよ。 ユキヤマ嬢、洋食みたいなのがあったんだっけ?よく覚えてないな。うちの大学より美味しかったという記憶はある。美大の宿舎、一回に一つの共同調理場(ガスがあるだけ)には、換気扇がなくて、私が魚焼いて、廊下中煙に包まれ、南米のアイラインのきつい太めの女子に驚かれた。私は魚の煙で、「新橋~」※とか思ったけど。※ああ、飲み屋が多いところね。
【2015/02/27 19:15】| | みどり不能没有你(お前やないと あかんねん) #55feb6f951 [ 編集 ]
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