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今日は中華、和食でない食事情について。
先週ご丁寧なコメントがあって……。 手許にあるバイブル『北京散歩ノート』(1985年講談社文庫)によると、「北京の代表的外国料理店」として、「マキシム・ド・パリ」(崇文門。フランス料理)、「シルクロード」(長城飯店。照り焼きステーキなどの西洋料理)、「ミニマム・ド・パリ・ペキン」(前門東大街。フランス料理)、「レ・フランス」(長城飯店。フランス料理)、「ジャスティン」(建國飯店。エスカルゴやステーキなどの西洋料理)、「イーリー」(“義利快餐廳”宣武門內。ハンバーガー、ソフトクリームなどのファストフード)。 私の持ってる1988年初版のJTB『中国 自遊自在』のコーヒーショップの紹介で、「コーヒーはインスタント風か、ドロっとしたものが多く、日本のコーヒーとは似て非なるものだ。ホテルなら1杯3元くらい。町中だと1元くらいから飲める」。 以下、青字部分はJTBの本から。 みどり色は私の言い分。 ・世界之窓(国際大厦)28階中華、29階洋食 行ったことなし。 ・莫斯科餐庁(北京展覧館) ロシア料理を中心とした西洋料理。2階は外国人専用。 92年だったかな。行ったよ。味は普通だった。その後に行ったヒトはみな「まずい」と言ってた。 ・ケンタッキーフライドチキン 88年「チキン3ピース、パン、サラダで14.3元」。1987年オープンの前門店に続き、1989年に東四にもオープン。 前門にしかないと思っていたが、東四のちょっと北にもあったな。前門店の東隣りに「VIE DE FRANCE」のパン屋があって、日本人が食べられるようなパンといえばホテル以外はここしかなかった。「VIE DE FRANCE」のパンは後にスーパーなんかにも置かれたが、今ないよね。北京からいつ撤退してた?私、去年成田空港で見たぞ。 ・アンクルサム(山姆叔叔)/ハンバーガー/建国門 何回か行った。さえないファストフードだった。 ・義利快餐庁(西绒线胡同) 香港から調理設備を導入した中国最初のファストフード。すべてセルフサービス。ホットドッグ1元、ハムサラダ1.6元、フレンチトースト1元。 行ったことなし。 ・マキシム ご存知ピエールカルダンの経営のフランス料理店。値段はコースで約150元。 ミニマムしか行ったことないな。 香格里拉饭店、丽都饭店、建国飯店のようなちゃんとしたホテルなら洋食が食べられた。でも留学生わざわざ行かないし。今の留学生みたいな日本と同じような食生活じゃなくて、毎日中華だったよ。学食、または外の食堂(というかレストランというか)。あと西単の交差点をちょっと南に行った東側に「ダイヤモンド」というキッチンって感じのレストランがあって、大学はみな西にあるから、わざわざ東のほうへ行かないし、唯一高くなくて、遠すぎない店だったといえる。 自炊で洋食もあまり作らなかったな。だって材料が売ってない。バター、チーズ、スパゲッティなんかは友諠商店か、空港のほうのリド(って言ってたよな)くらいでしか売ってないから、留学生宿舎で作ることはあまりなかった。 はい、古い皆さん、コメントどーぞ。私からは二つ。 ・コーヒーは五つ星ホテルでもまずかった(日本から旅行者が来たときくらいしか行かなかったけど)。 ・サンドウィッチがお粗末だった。パン、チーズ、キュウリ、パン。パン、ハム、マスタード、パン、みたいな。 PR |
私が留学していたころ、外国人は外国人専用の貨幣を使っていた。「钢镚」(コイン)は共通だったけど。私が留学直前に日本で見た(本屋で立ち読みしたか、図書館で借りたか)ガイドブックのような本に、「友諠商店は外国人しか入れません。あなたが中国人のような格好をして、中国語をペラペラしゃべれば、入口で止められます。ここで止められるようになったら、あなたの中国語も大したもの」ってな表記を見た。実際91年に行った時、中国人でも入店可能になっていた。
でも友諠商店は「外汇券」(全称"外汇兑换券"。外貨券。FECとも)でなければ買い物できなかった。だから中国人が買いたくても普通は持ってないから買えなかった。 中国人は欲しい。外汇を高く売買するルートもある。それで闇でチェンジするなんてことがあった。私は留学1年間帰国しないつもりで来たから(実際1年半帰らなかった。今の留学生ってしょっちゅう帰るよね。ぜいたくだ)、現金怖くてトラベラーズチェックで持ってきたのね。現金持参の留学生は結構お世話になったと思う。 語言学院近くの花屋、写真現像屋。留学生はみんな知ってたな。 そうそう、トラベラーズチェックだから、必ず銀行に行くわけだけど、外国人の多そうな銀行だと(雅宝路の中国銀行など)、外に、いや中にも「换钱吗?」って聞く人が多くてうっとーしかった。旅行客も来るから英語で「change money?」とも言ってたな、あの人達。 外汇が欲しい中国人もいるんだけど、逆に見たことない中国人もいるから、地方へ旅行に行って使えなかったと嘆く留学生も。北京の町中の買い物でも嫌がる店はあったな。 当時は外国人料金というアタマに来る制度があって、西安の「兵马俑」なんて中国人の5倍の入場料を取っていた。だから留学生は「人民币(人民元)」を入手して、中国人になりすまして、安い方の入場料で観光地に入ったりした。チケット見せるところで、バレないかドキドキだったよね。 「90年代ネタ、若い人はついていけませんね」って言われたけど、ついてこなくて結構。老人で大いに盛り上がろう!(おいおい) |
1991年、1元は日本円でいくらだった?まったく覚えていないもので。95年頃は?誰か教えてちょうだい。私が初めて北京に旅行に来た1986年は1元=40円だったかな?80年代組!当時のレートを思い出して!!
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ちょっとぉ!アンタ達!何でアタシ抜きでコメント欄で盛り上がっているのよ!はいはい、表舞台に出してあげますよ、その話題。
今日は90年代のタクシーについて。先にその「アンタ達」のコメントをコピーする。 功夫man氏:ダイハツの軽四箱バンみたいなタクシーにみんなで乗り込み、わいわい言いながら行ってました。あ~懐かしい。 マリズさん:そのミニミニのダイハツのバンは、黄色くなかった?それ、面的っていう10元タクシーですね。あれと、小公共汽车は便利だったんだよね~。懐かしい。昔のタクシーって、シャレードっていう車(中国語は夏利)が多かった。 yukiyama嬢:当時、夏利(シャレード)に乗ると晴れがましい気持ちになったものでした。「春はシャレードに乗って・・・」というフレーズを口に出してしまいそうなくらい。(横光利一さんすみません)面包がつかまらなくて、やむを得ず夏利に乗った、と言うと友人からゼイタクだ! と非難されていました。 功夫man氏:「夏利」は天津で生産されていたのでは。確かに面包車より初乗り料金が高かったですね。 ここからみどり様。 タクシー。今はボラなくなったと思う。たまーーに空港から市内に乗って高額をとられたなんて話あるけどね。昔に比べたら雲泥の差。タクシーの管理が相当厳しくなったんだなと心から思う。だってメーターは改造済みとか自家製とか正常に機能しないものが多かったし、領収書だって手書きだった(友達、日本人女性だけど、運転手にいつも「多く書いて」って頼んでいたらしい。会社でタクシー代出るから。機械が導入されたとき、チッて舌打ちしてた)。 だいたい91年は流しのタクシーがなかった。タクシーというのはホテルにあるものという認識だった。 普通のタクシーが4kmまで12元。初乗りは21世紀の今のほうが安くなったんだよね。面的は10kmまで10元だった。ダイハツのハイゼットがベースである、天津大发(ダイハツ)の面的、面包车(パン「面包」に似ているから)、色が黄色いから、新聞等で「黄虫」とも言われてた。今調べたらね、「1998年,北京市政府发动了大规模“扫黄”运动」(←おいおい、その「黄」じゃないだろ。これ訳さないよ)。このとき北京から消え去った。 面包车はよかった。だって10kmまで10元だよ。金持ちアメリカ人留学生とタクシー拾うとき、面的しかなくて乗ったら、そいつら二人とも「これは棺桶だ(中国語で棺材)」なんて言いやがった。 今中国語の記事を見つけたよ。「10块钱10公里,车里能坐七个人,还能放下自行车、电视机等大件物品,老百姓搬家都叫它……特别是个子高的体育运动员,一个人进去,可以躺下来,但面的没空调……」(7人乗れて、自転車やテレビなど大きなものも置けたし、引越しにもこれは利用された。背の高いスポーツ選手が横になることもできた。しかし空調はなかった)。そう。クーラーなんてない。夏に日本から大学の先生が来て、これに乗ったら、「いいね。北京ではタダでサウナが体験できて」と冗談をかまされた。でもあちらは4人で来て、私入れて5人。普通のタクシーだと2台に分かれてしまう。だからこれを活用してよかった。 写真、カンタンな記事は「北京の名刺・タクシーの歴史」へ。 1998年まで普通のタクシーが4kmまで12元。1キロ超えるごとに2元(红旗とか、ふるーいトヨタとか)と1.6元があったと思う。そのほかに1.2元(1.4元かな?)の風変わりなタクシーがあったの、誰も覚えてないだろうなあ。それの歴史は短かった。 今日はタクシーネタに限定。あのね、90年代ネタまだまだいきますから。単語だけ出しといてください。すぐ記事にするよ。私が今後記事にする予定なのは、文部省の奨学金、FEC、パン。 |
コメント欄でお兄様とお姉様が楽しそうに盛り上がってるから、本文に書かざるをえない。
私、90年代ネタ用に本棚からガイドブックを引っ張り出してきたよ。 JTBの『中国 自遊自在』(1998年初版発行 1991年改訂)と昭文社の『中国の旅 北京 天津』(1992年発行)。 この二冊に載っている日本料理店は、白雲(中日友好賓館)、五人百姓(北京飯店)、桔泉(崑崙飯店)、中鉢(建国飯店)、みつこし(発展大厦)、五合庵(天橋賓館)、安具楽(新僑飯店)。 ほぼホテルなどに入ってる店で高級和食って感じだったが、一つだけ居酒屋があって、それが「居酒屋兆治」。発展大厦の向かいにあった。店主の田端さんは映画『竜二』のモデルとなった人で、90年代半ばに北京で亡くなっている。元ボクサーだったはず。 「居酒屋兆治 北京」で検索したら、貴重なレポートが。 「現代中国における日本食伝播の歴史と力学」 北京で一軒目の日本料理店は1960年代後半にオープンした「中野」だが、数年で閉店。次に1977年に北京飯店内にオープンしたが、店名は不明。1987年にあったのは、(上記の店を除き)青葉(楽游飯店)、ふじまつりばやし(漁陽飯店)。北京は南方と違って食料調達が困難で、ブロッコリーやレタスがなかった。 私が留学するとき「北京は冬は白菜しかないよ」と脅されたものだ。実際、91年に北京に来て、学食でも外のレストランでもいろいろな野菜はあったが、今ほどいろいろではなかったなあ。ブロッコリー、レタス、そんなイキな野菜なかったかもね(よく覚えてないんだけど)。 さて、コメント欄に「ダイヤモンドってありましたよね」とあった。なつかしいいぃぃぃぃいいぃぃ。それは洋食だよね。西単にあった。キッチンって感じだった?今回は和食に関して思いの丈をお書き込みください。 以下ネットから拾ってきた。 ・北京餐庁情報:見聞き驚き食べ歩き1994年 五人百姓/鴨川/居酒屋兆治/富士屋/高橋軒/三越 ・中国狂の歌 1991年8月の旅行記 |
え?SMAP?行かないよ。だって誰が塾に息子を迎えに行くの?アイドルまったく興味なし。あ、でも行った人は「もー。前の方、中国人のおっさんばかりでびっくりしましたよ」とか教えてください。
90年代回顧シリーズそろそろ行こうか。90年代に行ったコンサート、演劇、そういった類を発表してください。外国から来た演目を観に行ったという条件で。 私は1992年(たぶん)リチャードクレーダーマン(首都体育館)。席が遠くてピアノの貴公子は豆粒のようだった。この日覚えているのは、当時留学していた大学まで帰るのが大変。バスはちょうどいい路線がなくて、流しのタクシーなんてまったくなくて、白タクもなくて、同じ大学の日本人留学生がいつの間にかバンに交渉していて、7.8人で一緒に乗って帰って行った。 サザン(中国語は「南天群星」)も来たな。でもなぜか私は行かなかった。コンサートは2日連続だったのに、桑田氏が1日目終わった夜にお腹を壊したとかで、2日目のコンサートは中止になった。ナニ食べたんだろうか。 あとこれも92年。劇団四季の李香蘭(保利劇院)。ものすごくよくて、知り合ったばかりのダンナを連れて行けばよかったと思った。 93年か94年に坂本龍一(保利劇院)。一番いい席だったのかな。200元だった。日系企業に勤めていた親友がいい席取れるよと言ってくれて、ダンナの分も買った。当時の物価を考えたら200元って相当高かったよ。 ダンナは芸術に対しては何でも評価が厳しいけど、坂本龍一をベタぼめ。終わって外に出て「日本鬼子。真すごい」(原文まま)。あと「このヒト絶対日本に住んでないだろ」。「アメリカに住んでるんじゃなかったかな」。「そうだろ。この音楽のスケールはあんな小さい国に住んでたら養われない」ってなことを言いやがった。 というわけで、古い皆さんコメントよろしくね。 |
7月初旬に雑誌を買ったら、おまけがついてきた。雑誌は10元。この威露士泡沫洗手液(Walch泡ハンドソープ)は13元くらいする。私はこれを90年代に留学していて、最近全然中国に来ていない友人達に見せたい。私が留学していた頃なんてロクな雑誌がなかった。しかも使えるおまけ付きなんて、溢れる涙を抑えることができない。時代は進んだと感じる、でしょう? さて、90年代回顧シリーズをぼちぼち書いていくことにしたんだけど、第一弾として「歌」から行こうと思う。今はネットでいろいろ聴けるけど、私が留学生だった頃はテープを買っていたくらい。中国の音楽、歌手にあまり興味もなかったから、街で、テレビでああこれ聴いたな程度だけど、昔を知る皆さんと「おー懐かしい」を共有したい。 百度百科「90年代经典老歌列表」に500曲載っているので聴いてみた。知らない曲のほうが多かったよ。特に広東語の歌。4小節くらい聴いて、知らないと思ったら「次!」。この手法で数カ月かけて500曲全部聴いた(ねえ褒めるに値するでしょう?!えっ?ヒマなんかいと罵りたい?)。 今日はこのリストの中から、日本の歌のカバー(中国語は翻唱)だけをピックアップする。 ・飘雪(陈慧娴)/『花咲く旅路』原由子 ・让我欢喜让我忧(周华健)/『男と女』チャゲ&飛鳥。 ・花心(周华健)/『花』(喜納昌吉) ・红蜻蜓(小虎队)/『とんぼ』長淵剛 ・风继续吹(张国荣)/『さよならの向う側』山口百恵 ・每天爱你多一些(张学友)/『真夏の果実』サザンオ-ルスターズ ・爱情故事(辛晓琪)/『ラブストーリーは突然に』小田和正 ・让一切随风(钟镇涛)/『時の過ぎゆくままに』沢田研二 ・蓝雨(张学友)/『レイニーブルー』徳永英明 ・捕风的汉子(谭咏麟)『メリアーン』アルフィー ・雨中的恋人们/『恋人も濡れる街角』中村雅俊 上記のサイトに載ってないけど、私が思いつくのは一つ。 ・爱丽丝的日记(伊能静)/『Rock'n Rouge』松田聖子 古すぎてマイナーすぎて画像がない。歌詞「♪ぴゅあぴゅありっぷす♪」が中国語で「♪可以不可以♪」なのに留意してほしい。 古い皆さん(こんな言い方)、西暦1999年までの歌でよく聴いたというのを教えてください。あ、コメントはこの記事じゃなくて、私が「私の知る90年代の歌」をアップしたときにお願い。 |
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