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《西四北三条》
西四北三条は明代は箔子胡同だった。箔子(苇箔とも)は建築材料で、金属の粉または金属の薄片を付けた紙を箔といい、紙幣にも用いた。当時北三条には箔を作る工房や商店があったことから、箔子胡同と名付けられ、清代には同じ音から雹子胡同、报子胡同となった。 一番東から西を見る。 3号。隆長寺。入れない。 明代在皇城地安门内设有汉经厂,是专为皇家刻印佛经、儒家经典和皇家文件的机构。明万历四十五年(公元1617年),外汉经厂奉赦改建为皇家庙宇隆长寺。明代は漢字(チベット、モンゴルの文字でなく漢字)のお経印刷所だった。高さ5mの銅仏があったが、法源寺に移した。 不明。中は工事中。 11号。西四北幼儿园。 乙26号院。明缘美容美发学校。こんなところに美容学校があるなんて。 39号是京剧大师程砚秋(1904—1958)先生的故居。程先生1937年买下此宅,直至逝世前一直在此居住。 程砚秋をずっと気にしていたのは、私が美大に留学していたときに、ちょうど程砚秋の孫に当たる中国人が在籍していたと記憶していたからだ。そして今、百度で「程砚秋的孙女」と調べたけど、わからない。そして横にあった関連人物「张君秋」。ここで誤りに気づく。同じく京劇俳優。程砚秋じゃなくて、张君秋だ!同時に孫の名前もわかった!「旅日画家、张君秋外孙女卢思作品展」(←ここに写真あり)。卢思、懐かしい。中国画専攻で、私の隣の部屋の日本人が同じクラスで、彼女とは仲よかった。卢思を知っている人も結構いるんじゃ?NHKの中国語講座の講師をやっていた。 《西四北四条》 明代は皮革工房があったので、熟皮胡同だった。皮革を加工するときに臭気を発するので、清代は臭皮胡同、民国初期に同じような音から受璧胡同となった。 47号。西四北四条小学の創立は光绪九年(1883)に遡る。当時は八旗学校の一つだった。 《西四北五条》 明代は石老娘胡同。昔はお産婆さんを老娘といい、石という姓のお産婆さんから名が付いた。 (写真はたぶん)7号。蔵書家傅增湘(1872—1949)旧居。1917年出任北洋政府教育总长。1927年任故宫博物院图书馆馆长。 26号。海外文摘(雑誌社)。 (続く) PR |
日本の中国語学習者には「ろしさん」でおなじみでした。懐かしいです。
ろしさんと李浩とゆみちゃんの時の中国語講座が好きで、その時だけ見てました。
【2017/05/18 12:25】| | caomeidangao #2ac05967bf [ 編集 ]
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日本語でろしさんっていうんですね。へえ。
NHKの中国語講座ってまともに見たことないかも。子どもが小さいときに一時帰国時に見せたことがあったけど、街中での会話で娘が「これはないでしょ」と。口語としてはいいんだけど、そういう展開かよおいおいっていうツッコみでした。まあ、NHKですから。 中国語を学ぶ番組が民放でもあったらいいのにと思います。私が今一生懸命見ているドラマ『人民的名義』。今日は朝からかけて、ずっと掃除してました。あれ、日本でやればいいのに。
【2017/05/18 20:46】| | みどり有这个必要吗?(必要ありますか?) #4dab704a09 [ 編集 ]
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北に向かって左側に、延吉冷麺館だったか、お店があったと思います。当時さっぱりしているものが食べたいと冷麺を食べに行きました。
ここより南の、西四の塔の並びに拉麺のお店がありました。おととし、そこと思われる位置に派手なつくりの拉麺のお店発見。入ってみましたが、全く別のお店で、がっかりな味でした。もしかして、あのお店が大発展をとげたのかと思ったのですが。お店があっても、味がかわっていたり、昔とずっと同じでいることは難しいことなのでしょう。 |
北に向かって左側にある店でしっかり覚えているのは焼肉屋でした。そこで冷麺を食べた。二階、狭かった。古いことを覚えていそうな人に尋ねておきますね。
拉麺を食べた記憶はありません。私が留学をしていた頃はレストラン、食堂の数が少なかった。あんな西北に住んでいたのに、1年目の留学が終わった7月に、そのときに帰る日本人留学生の送別会を東四の広東料理「阿静」で開きました。それくらいレストランが少なかった。あとはホテルの中とか。 長く営業すること、そして同じ味を保つのも難しいんでしょうね。
【2017/05/21 13:12】| | みどり头顶国徽(頭には国章を付けてるんだから) #4dab704a09 [ 編集 ]
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