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この1月。建国门社区博物馆をネットの地図で見つけて行った。そしたら個人の参観は火木のみ。それで赵堂子胡同を東に。
200mくらい進むと左手に朱启钤故居。中には入れない。 朱啓鈐(しゅけいけん)は、清末民初の政治家。北京政府、交通系の政治家として知られる。字は桂莘、桂辛。号は蠖園。祖籍は貴州省紫江県。徐世昌の義子。 挙人となり、1903年(光緒29年)3月、京師訳学館監督に就任する。1905年(光緒31年)10月、北京外城巡警総庁庁丞となる。(1907年(光緒33年)に東三省蒙務局督弁に任じられた。まもなく日本へ赴き、北海道で開墾事業を視察している。1909年(宣統元年)、津浦路北段総弁に就任する。 1912年(民国元年)7月、北京政府の陸徴祥内閣、趙秉鈞内閣において交通総長に就任した。また、趙秉鈞内閣崩壊後の翌年7月、一時は国務総理を代理した。政治的には、梁士詒が率いる交通系に属している。9月、熊希齢内閣で内務総長となり、京都市政督弁等も兼任した。1915年(民国4年)、袁世凱の皇帝即位画策を主導し、9月、大典籌備処処長に任じられている。 しかし、袁が翌年6月に死去すると、朱啓鈐は帝制推進の罪を問われて指名手配を受けることとなり、天津に逃げ込んだ。1918年(民国7年)に赦免され、同年8月、安福国会の参議院副議長に選出された。その翌年2月の南北和平交渉で北京政府側の総代表をつとめ、上海で南方政府代表の唐紹儀らと交渉した。しかし失敗に終わり、再び天津へ隠棲した。以後は実業界で活動し、山東中興煤鉱公司総経理、中国営造学社社長などをつとめている。 晩年は上海に寓居し、中華人民共和国建国後も大陸に留まった。中央文史館館員や中国人民政治協商会議全国委員もつとめている。 1966年2月26日、北京で死去。享年95(満93歳)」<Wikipediaより> 故居に入った人がブログで写真を載せている→探访朱启钤故居。いたって普通の平屋。 以下、百度百科より。朱启钤故居是朱启钤在二十世纪30年代购置的,当时还是一座未完成的建筑,后由他亲自设计督造,建成为一处大型宅院。北京沦陷时期,被日本人强行购买,抗战胜利后又发还朱家。新中国成立后,朱启钤将此宅献给国家,全家迁入东四八条111号。1986年1月21日,赵堂子胡同3号被公布为东城区文物保护单位,现为某单位宿舍。日本人が無理やり買ったことがある。 突き当たるまで東へ。 南下。 赵家楼饭店。 赵家楼……赵家楼位于北京长安街东端之北,原为明代在位时间仅6年的明穆宗隆庆朝文渊阁大学士赵文肃的宅邸,后来成为曹汝霖的第宅。因五四运动中的“火烧赵家楼”事件而闻名中外。解放后,曹旧宅已全部拆除,在原址建起了新楼房,为某单位招待所。1984年5月,为纪念五四运动65周年,北京市青年联合会和共青团东城区委联合在赵家楼胡同1号的东院墙上镶嵌了一块“五四运动火烧赵家楼旧址”铭牌,以为永久纪念。2002年5月1日,赵家楼遗址正式对外开放,成为爱国主义教育基地。 火烧赵家楼……1919年4月底,中国代表在“巴黎和会”失败的消息传来,国人大哗,群情激愤。5月4日,北京各校爱国学生为抗议北洋军阀的卖国行径,游行示威,他们火烧赵家楼,痛打章宗祥,引发了震惊中外的“五四”爱国运动。赵家楼的烈火拉开了中国新民主主义革命的序幕。。1919年、パリ講和会議の失敗を知った国内の中国人は怒り爆発。5月4日北京の大学生がデモを行い、赵家楼に放火し、章宗祥を痛いなんてもんじゃないくらい殴った。赵家楼の烈火が中国新民主主義革命の序幕を開いた。 赵家楼は曹汝霖の邸宅で、曹汝霖は外交部次長のときに対華21カ条要求交渉に臨んだ人。ボコボコにやられた章宗祥(駐日特命全権公使)がたまたま帰国して曹汝霖宅にいて、学生達は曹汝霖と間違えて、章宗祥をボコボコにしてしまった。 北上。 北总布胡同二号原是用建协和医院的余料盖的,是美国煤油大王洛克菲勒基金会董事长为其父母盖的,抗日战争时一日本官僚居住。日本投降后,此宅被收归国有。根据停战协定,为调处国民党、共产党之间的军事冲突,成立了军事调处执行部,简称军调部。中共代表叶剑英、国民党政府代表郑介民、美国政府代表罗伯森,后美国总统特使马歇尔也参加。民国三十五年(1946),此宅为军调部国民党代表驻地。后又归国民党第十一战区司令长官孙连仲居住。解放后收归国有,成为某单位宿舍。 去年の9月にここに来ていて、ブログにアップしている。ロックフェラーが両親のために建て、抗日戦争中は日本の官僚が住んだ。日本投降後、国有になった。 <このあたりまた行ったから後日続く> PR |
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