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12月31日まで書道展をやっていますよと教えてくれた人がいて、行ってみた。
地下鉄天安门东から南池子大街を北へ。通り入ってすぐ左に皇城艺术馆があり、何か展覧会をやっていたら入ろうと思ったが、保安に装修と言われる。 北へ。右に皇史宬。中国明清两代的皇家档案馆,又称表章库,位于北京天安门东边的南池子大街南口。皇史宬始建于明朝嘉靖13年(1534年)7月,建成于明嘉靖15年7月。占地8460平方米,建筑面积3400平方米。是我国现存最完整的皇家档案库,距今已有460多年的历史。 入れない。 どんどん北へ進み、灯笼裤胡同を右に。 前、左と進めば普度寺。突き当たり↓。 こわいよ。オジちゃん! 1. ドルゴン(1612年-1650年)は太祖ヌルハチの第14子。甥にあたる順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。 2.ドルゴンと重華宮(普度寺) 明代に紫禁城の東華門外に皇城東苑、またの名を南城と呼ばれるところがあり、皇帝や皇族の遊び場のひとつであった。その苑の宮殿を重華宮と呼んだ(普度寺の前身)。1450年の土木の変で失脚した英宗皇帝が一時ここに住んだことで歴史上に名を残している。 清朝の初期、ドルゴンが入城したとき、この重華宮で摂政をしいた。事実上清順治初期の政治の中心地となり、多くの人馬が行き来した。「百の馬車が南城に会す」とまで言われ、当時王侯貴族が頻繁に出入りしていたことがわかる。順治7年12月ドルゴンが病死すると、冤罪に問われ、王府であった重華宮は荒廃していく。 康煕33年(1694年)康煕帝はドルゴンの名誉を回復し、重華宮を改修してマハカラ廟と名づけチベット仏教寺院とした。マハカラとは日本では大黒天であり、チベット仏教では護法大神である。乾隆40年(1775年)更に拡充し、大殿を慈済殿と呼んだことから普度寺と愛称された。 20世紀後半から南池子小学校となり、また住民が住んでいた。2002年、周囲の居住区域も含めて大改修され、普渡寺の復元と保護を行い、2004年から一般に公開されている。 3. 北京普渡寺 色が鮮やかな方が修復されているところ。 外に出る。北へ。このあたりはきれいにしすぎ。新しい感、ハンパない。
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北京を案内する時、故宮→大三元で昼食が
私の定番でした。 美味しい広東料理を思い出します。
【2016/12/29 09:25】| | sumari #7f3c6abab7 [ 編集 ]
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そもそもレストランの数が少なかったもんね。sumariさんが留学していた時期は私よりずっと後だから、ずいぶん違うと思うけど。西四の阿静(広東料理)もよく行った。当時としては高かったかな。
【2016/12/30 17:43】| | みどり越爬越高(どんどんのし上がれよ) #4dab706a8b [ 編集 ]
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