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石鼓文(前374年)とは
・石鼓は中国に現存する最古の刻石。 ・唐代初期に陳倉(今の陝西省宝鶏市)で同時期に10個発見された。 ・製作年代は諸説あるが、戦国時代の秦に作られたとの説が有力。うち1つは民家から発見され、石の上部が抉られ臼として使われていため、碑文は殆ど読めない。 ・太鼓状の石(高さ約90cm、直径約60cm)に刻してあるため、この名がある。 ・一字の大きさは約4cm。一行7字。 ・字体は小篆よりやや繁雑で、《説文解字》にある籀文に近い。 ・もと700字以上あったといわれるが、現存するものは 272字である。 ・石鼓は現在、北京の故宮博物院が収蔵。 故宮に「石鼓館」があり、10個の大きな石が置いてあるのだが、あろうことか現在閉鎖中(10月に開館予定)。石鼓館のあたりを大工事しているのだが、計画性のなさがひどすぎる。 日本人書家の紹介する中国書道文化史に【呉昌碩といえば『石鼓文』、『石鼓文』といえば呉昌碩と言われるくらいその臨書作品が数多く存在する。】とある。詳しくはここへ。呉昌碩の展覧会開催中なのにぃ! 石鼓文の拓本はいろいろあって、日本では三井記念美術館と台東区書道博物館にある。 【一】《先锋本》(北宋拓) 日本东京三井纪念美术馆藏。《先锋本》分上下二帖。最古の拓本。 【二】《中权本》(北宋拓)日本东京三井纪念美术馆藏。不明瞭ながら500字が読み取れる最多字数の拓本。 【三】《后劲本》(北宋拓)日本东京三井纪念美术馆藏。 【四】故宫博物院所藏为明代拓本,孙克弘旧藏,后归朱翼盦,朱氏去世后,家属遵其遗嘱捐献故宫博物院。 これらの写真は中国人のブログへ→石鼓文四种拓本 そして、今回の呉昌碩の展覧会に展示されている拓本は【四】の明拓。私が撮った写真三枚。 以下、今回の展覧会に出ている呉昌碩の臨書。 1890年。47歳。 1915年。72歳。 1920年。77歳。 石鼓文の日本語訳を探したが、なかった。中国語の現代語訳したものはここへ→白话诗 试译《石鼓文猎碣第一》 10鼓の内容(Wikiより) ・吾車鼓(6字11行・19句)「吾車既工」に始まり、狩の序盤を描写した詩がつづられる。この1句目が詩経と酷似することから、宣王説が生じた。 ・汧殹鼓(7字9行・17句)「汧殹沔沔」で始まり、土地の豊かさを称えた詩がつづられている。“殹”字は秦固有の字のため、宣王説打破の根拠となった。 ・田車鼓(7字10行・18句)「田車孔安」で始まり、狩の情景を描写した詩がつづられる。拓本でもやや破損があり、3句は解読不能となっている。 ・鑾車鼓(7字10行・18句)「□□鑾車」で始まり、全行の冒頭2字が欠けているため6句しか解読されていないが、狩が終わって喜ぶ情景をつづっている。 ・霝雨鼓(6字11行・18句)冒頭は破損して第2句の「霝雨□□」で称される。半数強の10句が解読され、雨の中を帰る人々の姿がつづられる。 ・乍原鼓(7字11行・句数不明)石臼に転用された鼓で、詩は解読不能。破損を免れた1行下段の「□乍原乍」が通称の由来となっている。 ・而師鼓(6字11行・17句)半数の字が満遍なく破損しており、詩は解読不能。3行目末尾の「而師」が通称の由来となっている。 ・馬薦鼓(5字8行・句数不明)靖康の変で字を失った鼓で、宋拓でも20字に満たず、詩の解釈は当初から断念されている。 ・吾水鼓(5字15行・20句)冒頭「吾水既瀞」に由来する。残字は多いが磨耗が激しく、傷と点画の区別が難しい字が多くを占める。詩の解読は7句にとどまる。 ・呉人鼓(8字9行・句数不明)冒頭「呉人憐亟」に由来する。呉人(野守)が自然に感謝する描写と思われることから、一連の石鼓の掉尾に置かれることが多い。 PR |
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