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(この記事を90年代初頭私と学び舎をともにしたお兄様に捧ぐ)
留学が終わってから20年以上、一度も大学内に入ったことがなかった。前を通ったのも7、8年前かな。 これが留学生宿舎に一番近い門。21世紀の今はこんなに立派になって、見違えた。歩道橋ができていて、そこから撮影。 留学生宿舎の端。カフェができていた。 留学生宿舎の入口。 右がお兄様が日夜舞っていた場所。そこにお湯をもらうところがあって、部屋にあった魔法瓶を持って、汲んでもらいに行っていた。そのお湯をくれるおじさんが、かの有名な启功(教授、書家)だったという噂がまことしやかに流れていて、私は先生の部屋まで行って会っていたので(日本の大学の教授に紹介されて)、みんなに違うよと教えてあげていた。 中に入る。入口に門番がいるはずだから、「昔留学していました」という覚悟をしていたのに、誰もいなくて拍子抜け。 当時、日本人男子が言っていたのだが、このロビーにあったソファをアフリカ人が部屋に持って行って、使っていた。ソファがなくなったから、学校は大騒ぎで、部屋を一つ一つ調べたら、アフリカ人の部屋にあった。それを指摘すると、「これは自分のだ」と言い張ったそうだ。アホすぎるぞ、アフリカ人という話を今でもよく覚えている。 宿舎に入ってすぐ右に小卖部ができていた。ここに電話があって、国際電話をかけるときにここに来ていた。階ごとについていた電話は市内通話しかできなかった。電話鳴ると、近くの部屋の子がとって、「○○。電話だよ~」と呼んでいた。私がいた階は争うように電話をとる日本人女子が二人いて、ダッシュがすごかった。 孔子像は私のいた頃からあったらしいが、記憶にない。 中国人の宿舎。外に干すと凍るよ。 敷地の西の方まで行った。90年代は水張って、スケートリンクがあったというのだが、私は知らない。中国の大学にしては大きい方ではないが、行動範囲は宿舎⇔出口だったからなあ。 留学生宿舎から一番近い出口を出て右(南)に行った交差点。今は十字路だけど、私がいたときはT字路だったと思う。大学の角にこんな高いビルディングが立っている。 ここは校舎が近代的になっても、まだ残っているからいいけど、二つ目の留学先(美大)は引っ越してしまい、元の場所には建物さえほぼ何もない。 時は流れても、私が学んだ精神はそこに残っているんだよと自分を慰めた。 PR |
これ、前に書いたような気もするが、いっか。大学生が授業をサボるので、テストに授業に出ているかのテスト問題まで出る。 |
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アンケートやってるけど、コメントが入らないな。ここにコメント返ししておく。 「見せてもらった寮は二段ベッドしかない部屋で8人が同居していて、それが嫌なのか外に部屋を借りている人もいたが経済発展して学生寮もよくなった」 ↑こういうのでしょうね。中国の大学の寮は普通ベッドしかない(机がない)から、勉強は図書室でやるものなのだが、この写真の部屋は机があって、恵まれている。留学生のほうは二段ベッドはないと思う。 中国は9月が新学年だから、寮について結構ニュースになっていた(とここでもすでに記事にしているが)。 ・羡慕吗!武汉大学新生入住樱花城堡 武漢大学といえば、桜がたくさんあって有名だが、それが寮の窓から見えて、内外ともにすんばらしい条件で「樱花城堡」と呼ばれている。建物そのものも家具も格調高い。 ・云南师范大学学生李诗白酷爱读书 ←写真見てよ。これ迷惑でしょ。奨学金とバイト代で買ったって書いてあるけど、こんなに本買えるなら奨学金いらないんでは?「読書家というのは必ずしもたくさん持っているということではない」ってどこかでコメントされていた。 寮のアンケートはここへ。 |
6時15分 出発
7時20分 到着 8時 清水先生の授業を見学 北京大学の日本語学科の学生は日本語を学んだことがないという条件がある。9月12日から授業が始まり、先週休みだったので、1年生は初めての清水先生の授業。中国人の先生による日本語の授業は進んでいるので、五十音図はすべて読んで書いている。「あいうえお」と書いてあれば、「あ」しか読めなくても、暗記しているため「あいうえお」と口から出る。だから「あかさたな」「おえういあ」等を見せて、読ませていた。私は国語の教員免許はあるが、日本語の先生ではないので、こうやって教えるのかと興味深かった。 50分授業がおわり、2時間目が私の担当なのだが、セロテープを忘れたことに気づく。売店へ。 教室に戻ると、生徒の誰かが携帯から日本の歌を流している。聞いたことがない。最近の歌なんだろう。結構なボリュームだ。誰も文句言わないどころが、そのうち数人で大きな声で歌いだした。なんか、笑ってしまった。日本語学科だから、日本の歌を共有しようということなのか。微笑ましかった。 9時 2時間目開始 去年の1年生にしたのと同じ内容だ。「日本は昔ことばはあったけど、自国の文字がなく、中国から入ってきた漢字を使っていました」の例として、万葉集を挙げる。「平安時代に漢字の草書体からひらがなができました」と枕草子を挙げ、「かなにはいろいろな字がありました」。「それが1900年の小学校令施行規則により、学校では今の五十音図、実際には48字を規定するようになりました」。すべて中国語で話す。 そのあと、ひらがな全部を用紙に書かせる。形のとりにくい字のどこを注意したらいいか、私が黒板に書く。何しろ時間がないから、10字をどんどん説明する。学生は自分の書いた字に注意事項を書き込んでいるのだが、私の速度に追い付いていない。私が8字目を説明しているのに4字目のところにいる子、等。練習する時間をとりたいので、それでも進める。 私が個人的に赤でどんどん直すが、タイムリミット。私のお手本を渡してあるので、比べて自分で練習するように言う。あっという間の50分だった。 授業が終わっても、「先生、見てください」と持ってくる子多数。そして「先生、来週はカタカナですか?」と聞く男子。「いや、私は今日だけなの。でも清水先生と相談します」。カタカナのなりたちなんて日本人でも知らないんじゃないか? 清水先生は3年生の授業に行くのだが、「覗きに来る?」と言われ、付いていく。窓の外はこんな感じ。 1年生は23人いたが、3年生は3人。なぜならたいてい3年生で日本へ留学するから。 学生が必ず持参しているお湯。 廊下。全部がこうじゃないけど、コンセント挿せるようになっている。 4時間目は日本人留学生が二人来て、途中から会話の練習。ほかの学部の聴講生も来ていて、日本語学科じゃないのに、日本語能力検定1級をとっている。簡単な会話は問題ない。 その留学生と先生と4人で学食へ(合コン状態)。ここ人口多いから。もうすごいんだよ。学食の3階は座席でメニューから頼む普通のレストランなんだけど、ひろいそこも満席。それでカフェへ。 こういうランチは25元くらいで、紅茶10元。 そこで別れて、一人で目的地へ。 超有名な未明湖へは行かなくても、水には親しめる。 西門から出る。 ベビーカーは私と一緒に中から出てきた。日本の大学にベビーカーはないな。 外に「北京大学」「清華大学」と書かれたノート、ペン、しおり等が売っていた。↓これ路上で売っているヒト。 ここから北上して、地下鉄「圆明园」駅まで徒歩。ダンナが昔円明園の画家村に住んでいたから、頻繁に行った。まさにこのあたりだ。懐かしい。 以上。 |
うちの娘が中国の大学の寮に入った。個人的には「家から通わないんだ?」と質問がきたけど、通えないことはない。地下鉄を駆使して、片道1時間半かな。でも1限目は8時から始まるし(未確認。日本の大学よりは早い)、午後も何時に終わるかわからない。中学高校ともに8時間目まであって、5時くらいに終わっていた。中国の大学もびっしり入っていると思った。往復の時間がもったいない。 私自身、北京の大学の寮生活がとても楽しかった。娘は高校まで学校生活がつまらなかった。少しでも楽しく過ごしてもらいたい。 私は過保護だから、高校の最後の最後まで朝起こしていた。自分では絶対に起きない。時間を少しずらして二つ目覚ましかけても、止めて寝てしまう。夜、横になれば3秒で寝るのは私とのび太と同じだが、蚊にさされて痒くて私が夜中に起きても、横で娘はボリボリ掻いて、睡眠続行。何歳までだったかな。「夢を見たことない」とのたまい、友人からは「大物になる」と言われたものだ。 中国の大学の留学生寮は一人部屋と二人部屋があって、1日だいたい一人部屋80元と二人部屋40元。娘は「安い方がいい」と言って、二人部屋に。 私も部屋を一回見に行ったけど、部屋には机、ベッド、洋服ダンスがあり、共同で使う電気ポットとテレビがある。 台所は自分の階にはなくて、上か下に行くのだが、ガスがない。电磁炉(電磁調理器)を買うしかなく、買った。これいちいち鍋とともに部屋から運ぶのメンドくさいな。学食は油ガンガンの中華ばかりだし、麺茹でて、めんつゆでもいいかと思う。娘の話しだと今の留学生はほとんど自炊しないと言う。外食は体によくないのに。 というわけで、次のアンケート。アナタの寮生活を語ってください。 投票、コメントは横のバーから。複数投票可。携帯で見ている人はここから。中国以外で留学した人も是非どうぞ。 |
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