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【2024/04/16 21:28 】 |
元北京大学あたり1

この日は多田麻美ファンクラブの集いだった。私はファンじゃないよ。友達だ。彼女が私のファンでなく、友達であるように。


 集合場所に30分くらい早く着きそうになって、先に一人で原中法大学へ行った。


  第一次世界大戦のときに、フランスで中国人労働者を大募集して、留学しながら仕事もする若者達が派遣された。この中に周恩来や鄧小平も入っている。この制度は1924年に終わっている。中法大学は蔡元培がいわばフランス留学予備校として建てたのが前身。1950年に大学としては運営をやめ、建物はほぼ完全な形で残っている。中には入れない。
  

    道路を渡って、南下。国家文物局    

    交差点を西へ。すぐに北大红楼がある。

   寄り道したのに、まだ待ち合わせまで時間があるので、道路を渡って、南下。

    突き当たりっぽいけど、近道したい。掃除のおじさんがいて、突き抜けられることを確認し、こんな細い胡同を前進。

     银闸胡同に出る。


     北大红楼に戻る。

    
    ここは1916年から1952年まで北京大学の校舎として使っていた。今は北京新文化运动纪念馆になっていて、参観できる。HP

  1919年、五四運動では、紅楼と北側の運動場が反帝国、愛国運動の策源地となった。日本軍が北平を占領していた時期、この地には日本軍中国駐屯軍憲兵隊司令部、日本憲兵隊本部が設置され、北京憲兵隊本部、日本憲兵隊留置所等の軍、憲、スパイ機関が特設された。1939年、中国画の大家である李苦禅は北大紅楼(日本憲兵隊本部)に収監され、苦痛を強いられた。(百度百科より)

     参観し終わって、西へ。一つ目の胡同を北へ。今は人民教育出版社等が使っているが、建築家の梁思成と妻の林徽因が設計した北京大学の地質館だった。乾隆帝のときの大学士、傅恒の家廟を1916年に北京大学が購入した。

    中には入れないので、門のところで見ていたら、リモコンか何かでおもむろに門が閉まった。感じ悪~い。

    さらに北上。日本人の奥さんがたいてい行っているTRB(フレンチ)の入っている元お寺、嵩(sōng)祝寺,智珠寺。これについては後日詳しく記す。レストラン以外に画廊もあった。


    ここを出てから、南に戻り、一つ目の胡同(东高房胡同)をチラ見し、さらに南下。


  次の道(沙滩后街)を西へ。


  2に続く。


(地図はクリックして拡大可)
元中法大学
B 北大红楼
元北京大学地質館
D 嵩祝寺,TRB


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【2016/06/02 08:56 】 | n博物館、観光地、散策 | 有り難いご意見(0)
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