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みどりの果敢な北京生活(忍者版)29日。最高気温36度、最低気温23度、空気質量144。

故宮(翊坤宮+儲秀宮)+八角楼珈琲

翊坤宮、扁額が多い。



翊坤宮を出て、北隣りの儲秀宮へ。西太后が住んでいた場所。

















趣味の悪い御花園を通って、北の出口、神武門から出る。



東へ歩く。カフェが数軒あったのを知っていて、足を休ませることに。


これは↑去年の6月撮影。こっちは↓今回。


八角楼咖啡(大众点评)。外に「酸梅汤5元。不设座位」と書いてあって、座っていいのか不明。入る。昭和の喫茶店風。



5元しか消費しないような貧乏人には座らせないという意味だった。アイスコーヒー25元を消費できる金持ちのオレ様は(え?何キャラ?)は堂々と座った。


このあと北海公園に行ったんだけど、バスに乗ろうと、ちょっと東へ。このすぐ近くにOASIS CAFÉというのもあったが、壁になっていて、跡形もなかった。このあたりほぼ「开墙打洞」だったので、壁にされちまった。お店は何処に?


故宮半日遊ネタはここまで。

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故宮(永寿宫+翊坤宫)

軍機処を出て北上。

現在、養心殿は大改装中で見学できない。故宮の王道見学コース、中軸線の建物は赤は赤く、青は青く、金はピカピカだ。一方、中心をはずれると、色の褪せ加減が歴史をにわかに感じさせてくれるのだが、そういう意味では養心殿もよかった。それが化粧直しを経て、派手派手になってしまうのなら残念だ。去年閉鎖したのだが、2020年には90%を公開する。

北上。咸和右门を入ると永寿宫。


永寿宫はかつての皇后と側室の住居。


故宮には70余の井戸がある。そのうちの一つ。


令儀淑德(by乾隆帝)


5月31日まで安徽徽州传统工艺故宫特展をやっている。展示されているのは安徽省の特産で、今の人が造ったものだが、著名な職人の手によるものだったりして、価値は高い。

安徽省といえば、硯。


筆。


墨。


展示はされていなかったが、紙も有名。文房四宝(=筆墨硯紙)がすべて揃う省だ。

正面向かって左右に東配殿、西配殿があり、東は閉まっていたが、西はなんだかゴージャスなお店になっている。高い酒、薬が売っていた。


永寿宮の西隣りは太極殿。


天井が伝統的なものではなく、白と青だった。






翊坤宮。




ここを見たかった。溥儀が婉容のためにブランコを作った。その金具が正殿の梁に残っている。


今日はここまで。

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故宮(断虹橋+冰窑餐厅+軍機処)

故宮書画館を出て、すぐ東に去年から公開になった「断虹橋」があり、橋の上には獅子が34体いる。



ここで見るべきは南から北に向かって右4番目の獅子。この獅子だけ形が違う。過去記事に書いているけど、覚えている?

道光帝の長男奕緯はデキが悪く、最後は道光帝を怒らせて、蹴られて、亡くなった。道光帝は後悔。この獅子を見ると、奕緯ではないかと思い出すという伝説。

北上。左手にレストラン「冰窑餐厅」(大众点评)。


氷の倉庫を改造して、去年からレストランとして開放。

宫保鸡丁饭48元

味はよかった。これとっくに微博に書いたんだけど、中国人が「這裡的烤鴨也不錯」「牛肉面好吃」とコメントくれた。

レストランの隣はカフェとショップ。ちょっと覗いたら、コーヒーもケーキもそれぞれ25元。私はお店でマスキングテープを買った。


いつも通り過ぎていた軍機処。初めて入った。

清の雍正7(1729)年、雍正帝が中央集権を強化し、軍隊に対する指揮権を強めるために軍機房を設立した。軍機処には軍機大臣、軍機章京などの官職が設けられ、これらの役人が軍機処で待命し、皇帝の召見に応じて軍政の要事について相談し、軍政務に携わった。(arabeijingより)


上から荣禄、载沣、张之洞、袁世凯

《続く》

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菩薩は怒らないし、イライラしない(と自分に言い聞かせ)

ダンナが昨日ここにやってきた。晩ご飯は外で食べようと思っていたが、ヤツは家で食べたい。仕事、つきあいで外食が多いから、できるだけ家で食べたい人。まあ、帰ってきたら、すべて作ってくれるから、いいか。

夕方5時にここに着いた。入っていきなり「给我倒水」。私はダンナに水を催促されるのが大っ嫌いだ。略して「ダンナが大っ嫌いだ」(おいおい)。はいはい、あげますよー。ダンナは繊細な体の持ち主で、18時以降コーヒーを飲んだ日にゃー、ずっとずっーーーと眠れない。お茶もダメ。17時だから、白湯をあげた。「お茶がいい」。「いやいや、眠れなくなるでしょ?」「6時前ならいい」。寝られなくても知らないよ。薄~いお茶を淹れてさしあげる。

今朝。息子は学校がない土曜日なので、ゆっくりできる。平日はダンナにお粥。息子は朝起きてすぐは食欲がないので、朝と昼の分(おにぎりとサンドイッチ)を持たせる。今朝、ダンナのお粥だけ用意した。息子は食べていない。「お粥が多い。周吾と半分でいい。いつも乾いたものばかり食べていて良くない」。乾いたもの=おにぎりとサンドイッチ。しょうがないじゃない。持っていくんだから。息子はお粥は好きじゃないが、食べていた。

私は学校がない日でも早く目が覚める。20時に寝ても24時に寝ても、目覚ましをかけなくても、5時から5時半の間に目が覚める。とっくに朝食を済ませた私はパソコンでニュースを見ていた。「レンタサイクルで一日数百元儲けている人がいるんだって」とダンナに話す。人差し指を大きく動かして、こっちに来いという指図。行く。私の額に手を当てるダンナ。「熱はないな」。「自転車で儲けられるわけないだろう」。

ちょっと読んでよ
いやだ
私はね。中国語を真面目に勉強してるの
そんなにできなくていい。それ以上できたら、スパイと間違えられて捕まるぞ
んなワケないでしょ!」

私は莫言の本も読んでいるよ。王強は小説とか読まないよね?本、読まないよね?
我用生命来阅读

はっ?哲学者の名言?自分の命を以て閲読しているから、本は読まなくていいよという意味だ。

ダンナねたはまだあるけど、もう書くのがメンドくさい。我越写越不高兴了。

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故宮博物院蔵四僧書画展2017



6月28日まで武英殿书画馆にて4人の僧の書画展を開催中。作品はすべて故宮が1949年以降に収蔵したもの。



なんで1949年以降かわかる?(説明はwiki、コトバンクから抜粋)

弘仁……明の滅亡に際して福建省に入り僧となる。
髡残(こんざん)……明末の社会的混乱を避けて 40歳近くでみずから剃髪して出家し、諸方の山野を歩いた。
八大山人……明の滅亡後、僧に。高僧として多くの弟子がいたが、のち県令に捕えられ発狂 (一説に発狂を装ったとも) 。脱走して南昌に帰り、書画をかいて過した。
石涛……4歳のとき明朝の滅亡に遭い、父王が殺され、廷臣に伴われて湖北省武昌に逃げて出家。

こういう人たちを遺民画家という。遺民画家とは(中国で)滅んだ前王朝への忠節の心を表現する画家。この人たちの場合は明が滅んで、清に仕えない。だから、清代に故宮に作品があるはずがない。後世に集められたというわけだ。

石涛と八大山人は遠縁の親族。石涛、髡残、弘仁とで三高僧、八大山人を加えて四画僧と呼ばれる。

弘仁……黄山の景勝を画いた代表的な画家で、独特の細い筆線で静寂で明るい山水図を多く残した。






髡残(こんざん/石谿せっけい)……山水画をよくし呉派の正統的画風によりながら,ややあらい筆墨を用いて個性的な画風をつくり上げた。



八大山人(朱耷)……伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。 だが、八大山人の筆を評するに、その描く鳥の足を一本のみで表したり、魚などの目を白眼で示すなど時に奇異とも取れる表現を用いている点を避けることは出来ない。白眼は、阮籍の故事に倣い中国では「拒絶」を表現するものとされる。そこから汲み取れるように、その作画の中には自らの出目であり滅び去った明朝への嘆きと、その眼に侵略者と映る清朝への、屈してしまったからこそ心中でより激しく沸き立つ反抗が暗に表現されている。









石涛……黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家に挙げられる。







書画展だけど、絵のほうがずっと多いし、書家じゃなくて画家でしょう。私が北京に来る前から知っていたのは八大山人だけ。ダンナと知り合った頃(93年)、すでに現代アートに着手していて、伝統的な水墨画などにまったく興味を示さなかったが、石涛の画集が120元だったかな。あの頃は本も安かったので、破格だったが、大きくすべてカラーで立派な、その本を買おうかすごく迷っていた。私はそのとき石涛は価値が有る画家なんだと認識した。

ここ数年、故宮の年二回の書画展はすべて行っているので、髡残、弘仁という名前は覚えた。私はやはり字のほうを真剣に見るけど、面白い字を書いていて、触発された。今日からまた創作を始めよう(今日からが多すぎるアタシ)。

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西四北○条をひたすら歩く(六条から八条)

食事中の人は見ないように。

《西四北六条》
  明代に燕山前卫衙署があったので、燕山卫胡同。清代に卫儿または魏儿胡同に。北京にはほかにも魏儿という胡同がいくつもあったので、区別するために南魏胡同となった。

ここは特に誰かが住んでいたという記録はないが、23号は2500平米、典型な中型四合院で、市の文物保護四合院に指定されている。


春秋园宾馆。ここにもホテルあり。1泊400元。


《西四北七条》
明代は泰寧侯陳珪の邸宅があったので、泰宁侯胡同。何号かは不明。陳珪は故宮を建設した時の総指揮官。

ゴミ箱に電光掲示あり。電気代もったいないっつの!

そんなことよりぼっとん便所どうにかしなさいよ!


平屋の中に駐車スペースはないから、胡同(公道)に駐車するんだけど、それでも申請して場所を確保するんだね。元々狭いのに、車一台でずいぶん場所を占拠する。


北京莲花四合院酒店。一泊240元。


《西四北八条》
  张学良が投資、建設した燕京造紙工場があった。明代は武安侯鄭亨の邸宅があったので武安侯胡同、清代に武王侯胡同、五王侯胡同に。

53号。入口に「庆宁寺」と書いてあるが、資料なし。歌手の蔡国庆がここで育ったという。


37号。宝禅寺。文章で詳しいのは「宝禅寺,西四北八条的诡异」。この中で言及しているテレビ番組は「这里是北京(西四这一片儿)」18分。宝禅寺は今はないし、中は住宅で入れないが、テレビ局ですと言って入っている。中がすごく長いのが意外だった。


11号。清代の谦郡王(瓦克达)府だった。瓦克达は爱新觉罗·代善の四男。今は造紙工場になっている。


八条一号という雲南料理のレストラン(大众点评)。中華は大勢で食べたい。

北上するとすぐに大きな交差点になる。この東西の道、ずいぶん広くなったよなあ(90年代からの目)。地下鉄に乗って帰途へ。

帰宅してからいろいろ調べたけど、中国人のブログは非常に詳しく記載している。行きたいところがあったら、百度で調べるとよい。

たとえばコレ→西四北头条至八条的几处宅

(完)

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西四北○条をひたすら歩く(三条から五条)

《西四北三条》
  西四北三条は明代は箔子胡同だった。箔子苇箔とも)は建築材料で、金属の粉または金属の薄片を付けた紙を箔といい、紙幣にも用いた。当時北三条には箔を作る工房や商店があったことから、箔子胡同と名付けられ、清代には同じ音から雹子胡同、报子胡同となった。

一番東から西を見る。


3号。隆長寺。入れない。

明代在皇城地安门内设有汉经厂,是专为皇家刻印佛经、儒家经典和皇家文件的机构。明万历四十五年(公元1617年),外汉经厂奉赦改建为皇家庙宇隆长寺。明代は漢字(チベット、モンゴルの文字でなく漢字)のお経印刷所だった。高さ5mの銅仏があったが、法源寺に移した。


不明。中は工事中。


11号。西四北幼儿园。


乙26号院。明缘美容美发学校。こんなところに美容学校があるなんて。


39号是京剧大师程砚秋(1904—1958)先生的故居。程先生1937年买下此宅,直至逝世前一直在此居住。


程砚秋をずっと気にしていたのは、私が美大に留学していたときに、ちょうど程砚秋の孫に当たる中国人が在籍していたと記憶していたからだ。そして今、百度で「程砚秋的孙女」と調べたけど、わからない。そして横にあった関連人物「张君秋」。ここで誤りに気づく。同じく京劇俳優。程砚秋じゃなくて、张君秋だ!同時に孫の名前もわかった!「旅日画家、张君秋外孙女卢思作品展」(←ここに写真あり)。卢思、懐かしい。中国画専攻で、私の隣の部屋の日本人が同じクラスで、彼女とは仲よかった。卢思を知っている人も結構いるんじゃ?NHKの中国語講座の講師をやっていた。

《西四北四条》
明代は皮革工房があったので、熟皮胡同だった。皮革を加工するときに臭気を発するので、清代は臭皮胡同、民国初期に同じような音から受璧胡同となった。

47号。西四北四条小学の創立は光绪九年(1883)に遡る。当時は八旗学校の一つだった。



《西四北五条》
明代は石老娘胡同。昔はお産婆さんを老娘といい、石という姓のお産婆さんから名が付いた。

(写真はたぶん)7号。蔵書家傅增湘(1872—1949)旧居。1917年出任北洋政府教育总长。1927年任故宫博物院图书馆馆长。




26号。海外文摘(雑誌社)。


(続く)

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西四北○条をひたすら歩く(一条から二条)

以前西四のあたりを調べたときに「程砚秋故居」が近くにあるので、中は入れないけど、そのあたりへ行こうと思っていた。故居は「西四北三条」。西四の北は头条から八条まである。全部歩いてやる!と思って、百度百科にある八本の胡同の記載をプリントアウトしたのが半年前だ。4月にやっと行った。

このあたりは元明代は家畜市場があったため、かつての胡同名に動物が付いているものが多かった。清代に市場はなくなった。

《西四北头条》

明清は驴肉胡同、1911年に(音が似ているので)礼路胡同、1965年に西四北头条に。何号か住所は不明だが、和珅西四北头条で育ったという。和珅といえば、私がばあさんと同居していた頃じいさんばあさんが一生懸命見ていたドラマ『纪晓岚』に出てくる、王剛演じる和大人和珅は「中国史上最大の富豪で、乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えたが、軍機大臣として専横の限りを尽くした」(wikiより)。1777年に和坤の私邸として恭王府が建てられ、ここから引っ越した。和坤は後に罪を問われて邸宅を没収され、恭王府は王府となったという経緯がある。

なんか臭いなあと思ったら、ニオイの元は水色の車。北京の中心、平屋ではまだ汲み取り式便所なんだよね。バキュームカーは朝陽区では見ないが、前門のあたりでもまだ見るよ。



私はこの日東西にしか歩かなかったが、姚家胡同3号曾是晚清著名诗人陈三立和当代著名历史学家陈寅恪父子的家。

南側は「历代帝王庙」。行ったことないのでいつか行きたい。


バス通りに出る。白塔寺が見える。かなり長いこと行ってないので、ここも行きたい。


《西四北二条》

北二条,明朝时穷兵黩武的江彬驻扎在此搜刮民脂民膏,后被凌迟处死。江彬は明代の姦臣。刮民脂民は庶民から搾取して私腹を肥やすこと。

58号は、民国初期に教会が建てた萃文、萃真学校が前身の北京市第41中学。




52号院は团圆客栈というホテル。1泊300元。




开墙打洞をどんどん閉じている。




10号。四禾居酒店。ここにもホテル。一泊540元。


バス通り(西四北大街)に出る。私が師範大学に留学していた頃、この通りのどこかで冷麺を何回か食べた。それは二階建ての食堂で、小さかったので、このレストランではないようだが、「华天延吉」(大众点评)だったのか不明。



冷麺全然美味しくない。
 

もっと南に餃子屋があって、そっちのほうが良かったな。


北上。

左から「毛主席万岁」と書いてある。

写真だけ撮って、帰宅後「西四北大街 毛主席万岁」で調べる。北京纸话に、ここは護国寺双関帝廟で、「関帝廟」と書いてあったところに「毛主席万岁」と書いたとある。

(続く)

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