忍者ブログ
  • 2024.03«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • » 2024.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/04/25 15:25 】 |
ポケベルがあった頃、携帯電話がデカかった頃in北京

ポケベルについて。

おねえさま:なんでそういう呼び方になったか忘れちゃったけど、最初は
呼机って呼んでいた気がします。 模拟BP机→数字BP机、汉字BP机→手机という変遷だったか。呼び方思い出しちゃった。 コールセンターに電話して「请呼一下54321」と言うと、「您贵姓?请留言」と聞かれるので「我姓〇,62021111回电话」とか言ったっけ。


 


おにいさま:そうですね传呼机といっていたこともありましたね。僕は中国でポケベルを使ったことも、呼び出したこともありません。駐在していた時には、モトローラ社の分厚い携帯電話を1万数千元出して買いました。2年後には、その機種はほとんどなくなり、薄くなってました。進化の早さに驚いた記憶があります。中国は固定電話の契約金が高く、電話線の架設工事が追いついていないので、携帯電話が爆発的に普及した、と何かの本で読んだことがありますが、電話で中国人と会話し続けるというのは、結構中国語の練習になりました。


 


おねえさま:あ~、モトローラの携帯!馬鹿みたいに高額の!旦那が買ったっけ!結構分厚い奴ですよね! あれが、あっという間に無くなったのも覚えています。今じゃ一人に一台ですもんねぇ~。座机(家の電話)も90年代初頭は引いてもらうのも半年待ちで、かなり高額だったはず。たまたま妹夫が日本に行くことになり、あわてて找关系して引いてもらったと言ってました。時としては、国際電話かけられたし、受けられた電話って凄かったらしいです。


 


 ここからみどり。私が92年にダンナと知り合って、その頃ダンナはBP(ポケベル)を使っていた。円明園に画家村があった時代で、そこの平屋に住む画家はみんな家に電話がないから(方力钧、岳敏君とかもなかったはず)、小卖部にかけて住所と名前を言って、呼び出してもらった。まだまだ国際電話料金が高かった時代で、私は93年頃半年間日本にいたので、そのときは呼び出してもらうまで「早く出てくれーーー」と思ったものだ。手紙も3日に一回は書いていたのに、郵便屋さんが1週間に一回しか届けないみたいで、3通いっぺんに到着していたらしい。


 


 95年に結婚して、家に電話がつくのに申請してから半年くらいかかった(費用はまったく覚えていない)。当時郵便局が近くにないので(か知らないが)、住所はあっても、郵便物が受け取れなかった。これでは日本の親が心配するので、携帯電話を買った。12000元くらい。モトローラのでっかいヤツじゃなくて(うちのダンナはそのデカいのを枕头と呼んでいた)、NOKIAのそんなにデカくもないヤツ(実は大きさをよく覚えてない)。当時5000元以下では国際電話がかけられなかった。後に家に電話がついて、その携帯を5000元で義妹に売った。12000元を5000元で売ったのは誠に不本意だったが、その後携帯の価格がどんどん下がり、5000元でも売れたのはよかったと知らされることになる。


 


 外に「公用电话」(公衆電話)というのがあるが、あれだと取り付け費が要らないとかで、それで申請して、でも対外開放せず個人で使ってしまう店(人)がいると聞いたのは95年頃。


 


 昔のポケベル、電話ネタ、コメント欄にどうぞ。

拍手[5回]

PR
【2014/05/19 19:54 】 | n90年代 | 有り難いご意見(4)
90年代ネタ:中華料理のレストランin北京
今月行ったレストラン、続きだけど、90年代ネタ。
 
①書道愛好家(いずれも日本人女性)で琉璃厂に買い物へ!とタクシーに乗り、本当は琉璃厂にあるジャージャー麺の店で食べる予定だったけど、『晋阳饭庄を通りがかったとき、助手席に座るアタシが後ろの3人に「ここ老舗ですけど、行ったことあります?」「予約がないと食べられないんですか?」「ダイジョブでしょう。ここで食べましょうか」と5秒で決めて、タクシーを降りた。

ここで食事するのは10年以上ぶり。市内中心の老舗は結構中心からはずれたところへと引っ越している。が、外観は様変わりしたものの、1959年開業の『晋阳饭庄』はそのままここに健在。





山西料理だから「刀削面」は必須。あとは「肉丝温粉皮」、「乌鱼蛋汤」、「西芹百合白果」(白果は銀杏)を注文。4人で180元。
 
ここが著名人の故居なのは知っていたが、今40元も入場料をとって記念館になっている。マダムが「故宮だって冬は40元なのに、ここが40元?」ともっともなことを言った。で、入らなかった。その著名人とは「纪晓岚」(清朝乾隆年间大学士、《四库全书》总编纂官)。ドラマやってたから、名前は知っていた。いつか見学してみるか。
※2018年追記:今はレストランで食べると故居は無料で参観可能。
 
晋阳饭庄
住所:宣武区珠市口西大街241号
TEL:63031669
大众点评



②友達とランチっていうと、どこにしていいか迷う。今回は私が提案して「90年代ネタ」のために『悦宾饭馆』へ行った。この店名を覚えていなくて、「ayazi 悦 中国美術館」で検索した。出た。「【悦賓飯館】疙瘩湯」。
 
私は90年代前半に北京の美大に留学していたが、その頃ダンナが「安くて美味い」と言って、何度か連れて行ってくれた。美大から近かったので、学生も結構行っていたと思う。うちの親や友人が日本から旅行に来た時にも案内したことがある。5年くらい前かな。『这里是北京』という番組で紹介していて、懐かしくなった。司会の阿龙(この人の声好き)が「中国初の個人経営のレストラン」と言い、へえと思った。
 
そしたら今は看板に「中国餐饮个体第一家」って書いてある。強調しすぎぢゃ。1980年オープン。ここから徒歩2分のところに『悦仙美食』という店があって、そこも90年代にダンナと行ったなあ。『悦宾饭馆』が混んでると『悦仙美食』へ、というふうに。だってメニューは同じだったから。今、調べたら、店名は違うが支店だった。













悦宾饭馆
住所:东城区翠花胡同43号
TEL:85117853 
大众点评

蒜泥肘子、五丝桶、锅塌豆腐、面筋白菜あたりがお勧めらしい(中国語の口コミサイトより)。写真は上から「五丝筒」(饼,酱付き)、「猪肉炖白菜豆腐粉条」、「糖醋里脊」、「疙瘩汤」、「拌苦菊」、「一碗米饭」。4人で約120元。

悦仙美食
住所:东城区翠花胡同31号
TEL:65245322 
大众点评



私は91年から留学を始めたが、1年で帰国する人が多く、最後大勢でどこかへ食べに行こう!となり、みんなで东西にあった『阿静』へ行った。当時は老舗の『全聚德』とか『东来顺』以外で外食(中華)といったら、あまり選択肢がなかった。ああ、あと『香港美食城』も何度か行ったなあ。东华门の屋台(って今ないの?)の向かいにあった。
 
1995年(かな?)、義弟夫婦が北京に出てきて、ご馳走を食べようということで、『阿静』へ行った。私が払ったんだけど、230元くらいしたのよ。嫁が「えええ?4人で一食230元!!!」と目を丸くした。田舎から出てきたヒトには超ビックリ価格だった。彼女の「うわあ。好贵啊。嫂子」は一生忘れない。
 
物価上がった。しょうがない。サービスも向上した。以前よりは。だってここ日本じゃないし。90年代(80年代でもいいんだけど)、ここのレストランに行ったなというのをコメントください。私は86年に団体で北京旅行に来たとき、北京に着いて空港からそのまま夕食となった店が「塔园外交公寓」にある(バス通り沿いの)レストランだった。ほかに思いついたらここに足す。

拍手[5回]

【2011/12/31 09:58 】 | n90年代 | 有り難いご意見(7)
90年代ネタ:当時食べられるパンといえばin北京
 あれは忘れもしない2010年、、、何月だったかな?(←忘れてるわ!)世界公園からバスに乗って市の中心までやってきたとき。天壇公園の西門の向かいに、ロベルタ発見。ああああああああああああああぁぁぁぁああああああああああああああああああ。あのマークは「パン屋のロベルタ」だあぁ。

79905641.jpeg1382531c.jpeg 懐かしさを確認するために、先週行って来たよ。「天桥百货商场」ってまだあるのか。エラく古いデパートメントストアだな。この一角に「R仁人乐饼屋」というパン屋あり。この「R」はかの有名なロベルタ様のマークでしょ?
 
 私はこの「天桥」の店には初めて行ったが、93年留学当時、東単と東四の間にあった「仁人乐饼屋」によく行った。だって北京で食べられるパンといえば、そこか新桥饭店の「三宝乐」(サッポロ)しかなかったんだから。
 
c4dc1069.jpeg アタクシ、買いました。右の皿、「仁人乐」で計17.6元。内訳はチーズケーキ5元、タルト2元、焼きサンドウィッチ4元、饅頭3.6元、カップケーキ3元。ちょっとありえない安さ。値段も93年のままですかい。味も93年レベルだと、値上がりしないのも頷けるが、まあ問題なく食べられた。ちょっと粉っぽいかな。タルトって今どこでも売ってるけど、4元くらいが相場。
 
 「仁人乐饼屋」を大众点评で調べたら、私がかつて通った東四付近が載っていた。「小时候住在东单,周围没有什么饼屋,那个时候吃面包蛋糕的人还不多」とか「从我小学3年级好像就有咯 或者更早 那时候我爸带我来的」なんて書いてある。で、おととい行って来たよ。そしたら、、、なかった。いいよ。そうやって思い出は消えていくんだ。
 
 新桥饭店の「三宝乐」も行った。店内に10年以上ぶりに入って、トレーを持ったら、懐かしさとかそんな美しいものを持つことなく、この買いたくなくなるようなピンナップの中から90年代ネタのためにどれを選ぶかに専念。上の写真の左の二つをお買い上げ。丹麦葡萄干面包4.5元と北欧面包4元。あまかったーーーー。
 
92aa922a.jpeg 「三宝乐」は劲松にもある。そこで数カ月前に買ったのは「豆馅面包4元、巧克力面包3.5元、咖喱肠5.5元」。この巧克力(チョコ)パン、93年と変わってない。21世紀にこの味はないだろ。だってチョコレートと名乗るのはチョコレートにあまりにも失礼だ。焦げた味がするんだよね。
 
 もともとチョコ好きじゃないのに、私にとっては弱り目に祟り目。でもこれ食べたらいきなり懐古モード。食が不自由な90年代初期にタイムスリップできる一品だ。
 
 パン。食べられるようなパンって売ってなかった。92年にハルビンにダンナと行ったとき、毎食中華で、パンの夢を見た。ハルビンにパンがあるってダンナが買ってくれたら、硬くて歯が折れそうで、しかも酸っぱかった。いわゆる「俄罗斯面包」。今は「パンの夢」は見ないもんなあ。
 
 今日はパンだけ。お菓子とケーキは別途書くからね。

拍手[4回]

【2011/12/01 09:05 】 | n90年代 | 有り難いご意見(8) | トラックバック()
90年代ネタ、生活用品。ピンクのトイレットペーパー金魚牌とかin北京
 私が留学を始めた1991年。トイレットペーパーはピンクで厚手だった。メーカーは金鱼。白いのはなかったんだっけ?箱のティッシュペーパーも、ポケットティッシュも売ってなかった。友諠商店ならあったかな。

 90年代を知るマリズさんと個人的にメールで盛り上がっているのだが、彼女から「これ懐かしくないですか?」と→http://t.cnool.net/view/post=5330652 この一番上の写真とキャプション。
 
6e83d220.jpeg 「1.还记得吗?每到星期二,电视台就这样」。90年代前半(たぶん)、それでなくともチャンネルの少ないテレビ番組、火曜日の午後は「维修」ということで砂の嵐――じゃなくて、こういう画面になった。午後3、4時間だったかな。夜になると放送開始。

 ブリキのおもちゃなんて北京で見たことなかった。今は南鑼鼓巷あたりで売っているでしょ。


 あとマリズさんより。94年頃、新婚当時家電を揃えるのに一苦労だったという話。

・テレビが高かった。1万元くらい。普通の国産テレビ(牡丹電子とか長虹電子)なら、それほどしなかったと思いますが、日本から持って来たビデオテープを見たくて、それ対応のテレビを買うとなると高かった。
 
・洗濯機は、西単商場で割合早目に手に入った(1200元くらい)。冷蔵庫は上が冷凍で下が冷蔵のタイプがなかなか無かった。
 中関村の百貨店にやっと妥協できる物があったが「没貨!」と言われた。家の旦那が「結婚用なんだよ。何とかしてくれよ・・・」とタバコだったかをあげたら、倉庫を見てくるよと言って出て行った店員・・・あったんだよ!倉庫には!(1680元)
 
 その後に、その冷蔵庫をどうやって運んだか・・・・店の外で待つ自転車にリヤカーのような物(竹とかで作ってあった)をつけたおじさんと交渉して、自宅までその自転車に我々が併走しながら運んだ(確か50元で4階の部屋まで運んでくれた)。
 
・ベットは天壇家具。ソファーは天橋の体育館の中で買った。(以上マリズさん)

 
  
 テレビ、1万元したよ。私が結婚した95年。携帯が1万2千元。家電っていわゆるデパートへ行って買った。王府井の百貨大楼も行ったなあ。私は家電選びであんまり苦労した覚えがない。だって「私達新婚。一緒にお買い物(は~と)」じゃなくて、ダンナが勝手にどんどん買ってきてくれちゃったから。
 日本人は使う(中国人は使わない)ビデオデッキ入手が大変だった。日本みたいにどこにでも売ってないから。家具は秀水の向かいの「贵友大厦」のちょっと北にある「北京市家具公司友谊家具店」(今もある)でも買った。
 
 
 留学し始めた91年9月。ゴミ箱が欲しくて(ってことは留学生宿舎にゴミ箱なかったんだな)、路上で15元で買ったら、お店で同じものが13元で売っていて、地団太踏んだ。
 
 あとは……思い出したらまた書くわ。

拍手[6回]

【2011/11/10 09:32 】 | n90年代 | 有り難いご意見(30) | トラックバック()
90年代、バスの乗り口と降り口in北京
 90年代バスねたのコメント欄に「北京のバスが乗り口と降り口を分けたのは2006年から」というニュースの記事が貼られている。北京公交车今起前门上车后门下车
 
 私が北京留学を始めた20年前、バスは乗り口と降り口を分けていなくて、「これじゃ無賃乗車できるんじゃ?」と思ったものだ。最初に分けたのが1997年くらい。一部のバスで。その後、2006年に完全に分けた、と今理解した。
 
 1998年発行の『AIYA』(創刊号で廃刊、おいおい)に私が書いたのを以下コピーする。これを書いたのは1997年だと思う。
 

“无人售票”の憂鬱
 
 私は毎日16番のバスに乗って通勤している。16番のバスのお腹には、“无人售票”という字が書かれている。“无人”とは無人、“售票”は切符を売るという意味。つまり、切符売りのいないバスなのだが、車掌さんはいる。
 
 中国のバスは真ん中が蛇腹で、二台がつなぎ合わさったようになっており、ドアが三つあるのが大半を占める。日本のバスのように、乗り口、降り口がハッキリ分かれていれば、乗り逃げもできないが、中国では可能(乗り逃げが発覚した場合、罰金は本来の料金の10倍であるが……)。そういう意味で、この“无人售票”は画期的。真ん中のドアから乗って、前後のドアから降りる。何しろ、みな座ることに命懸け!ドアが開くや否や猪突猛進!!それでなくても狭いドアに大勢の人が押し合いへし合い。“越挤越上不去”(押せば押すほど乗れない)という殊勝な呼びかけをも無視。そして乗ったあとは、椅子めがけてダッシュ。そのすさまじい光景の中、車掌さんは定期券、またはバス代5角をチェック。
 
 しかし、さらに穏やかならぬ事態が……。それは車掌さんがおつりを出さないことに端を発する。全員が小銭を用意していればよいが、勝手を知らず、おつりが出るだろうと、1元を出してしまうと、料金箱の中に入れられてしまう。乗客は「つりを出さないとはどういうことだ」と文句を言う。「おつりは出さないのよ!」。このやりとりを見るたび、“无人售票”の“无人”とは「おつりを出す人がいない」という意味での「無人」なのかと皮肉ってしまう。
 
 要領のいい人は、5角を料金箱に入れようとする人から取り上げて、知らぬ人との「二人分1元」を投入。または乗車前に5角を握っている人をつかまえて、「一緒に乗りましょう」と言い、あらかじめその人からおつり分をもらう例もある。
 
 さて、この“无人售票”どう考えても非合理的。ラッシュ時は、前後のドアから降りたくても、満員の中を進むのは困難。真ん中のドアはこんなに近いのにと横目で見つつ、渾身の力を込めて前進。新聞にもよく投稿が載っていて、中には“弊多利少”などと評しているものある。
 
 私は提案したい!“无人售票”を“有人不售票”に改めることを。



aiya.JPG

拍手[3回]

【2011/11/09 12:04 】 | n90年代 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
お得意「中国最大」の北京汽車博物館へ行った(昔のバス回顧編)
 アクセス編より続く。

8b875d38.jpeg 外にチケット売り場があるんだけど、アタシが「欧州行ってきましたーーー」とウソつきたくなるような洋風かつイキな售票处だった。


1a5290c1.jpeg







 ありましたわ、古い車。状態のよすぎる面包车

fa710e81.jpeg









 103って王府井大街を通ってた路線じゃんか。 80d49e45.jpeg












 中にグレーの動かない方々がおかけになっていらっしゃったけど、こんな「木!」だったっけ?覚えがない。


 確かに木製だったが、←こんなに粗くなかったような。今ネットで調べたら、こっち↓が私の知るほうのバスかなと思う。
bus1.jpg bus2.jpg








 古いヒトたち、「1950至1999 北京公交的成长史」から懐かしい写真を見てください。あと何か、バス関係、小公共汽车でもいいし、コメントください。

拍手[8回]

【2011/10/29 17:17 】 | n90年代 | 有り難いご意見(13) | トラックバック()
90年代の病院事情を大大募集!in北京
 私が2000年に北京で出産したとき、外国人が中国で出産していいローカル病院は協和医院、中日友好医院、友誼医院のみと限定されていた。大昔は中国で外国人の住むところが限定されていたように(外交なんとか、友誼賓館とか)、ローカル病院も最近まで「ここ!」じゃなきゃダメだった。まだ外資系が少なかったし、2000年以降、思いっきりローカルの「婦産医院」でどうにか許可を得て、産んでいた日本人もいたなあ。選択肢が増えていったのだった。
 
 92年だったかな。足をくじいて、留学していた大学(海淀区)から遠くない病院ということで、迷わず中日友好医院へ行った。後に留学先が王府井になったので、協和医院へ行くようになった。一般的にこの二つの病院以外は考えられなかった。いずれも外国人用の外来に行き、外国人とエラい人(中国語で「高干」って書いてあった「高级干部」の略)専門のところで診てもらった。今は外国人かどうかではなく、お金があれば中国人もその特別なほうで診てもらえるようになったよね。
 
 
 ネットで見つけたトホホな記事(1982年の話)。
 肝炎については後日談がある。とにかく何とかしなければならない。しかし日本大使館はあてにならなかった。北京に着いた時,大使館を表敬訪問したことがあった。そこである医師を紹介された。とても忙しそうに見えた。なんでも彼は中国だけではなく,モンゴルと香港を含む地区の担当医なので,あっちこっちに行かなければならないという。彼は言った。「ジンギスカンも真っ青ですわ」。それを聞いたこちらも真っ青である。そのうち電話が鳴った。テニスをやっていて腕を骨折してしまったという在留邦人からのものであった。医師は次のように親切に指示した。「接木でもしておきなさい!」。日中友好病院などいまだない時代だったのである。
 
 
 地方で病院のお世話になったこともないし、私は当時外国人用のところに行っていたので、90年代だからといって、困ったことはなかったけど、ネタのある人はコメント欄に披露してください。

拍手[7回]

【2011/10/26 08:42 】 | n90年代 | 有り難いご意見(19) | トラックバック()
90年代のお店in北京
 one of 古い人(こんな表現!)から以下のようなメッセージが来た。

 90年代ネタですが、ダイエーが一時期北京に出店する予定で、ビルまで建ててたけどダメになったよね?王府飯店の東の交差点の角。覚えてますか?今は、国際旅行社のビルかなぁ?建外SOHOの場所って、当時何があったのかな?5階建ての社宅?广播电视関係の何かがあったような・・いつもあそこに行くと思うんだよね、何があったっけ?って。

 
906b3628.jpeg そうなんだよ。当時は日系のデカい店がヤオハンくらいしかなくて、「ダイエーできるんだって。でも工事が全然進んでない」とみなで言い合った。その場所へ今週偶然行ったので、撮影してきたよ。CITSになっていたとは知らんかった。


 建外SOHOの場所が何だったか、まったく思い出せない。 
 

拍手[4回]

【2011/10/20 00:25 】 | n90年代 | 有り難いご意見(5) | トラックバック()
前ページ | ホーム | 次ページ

忍者ブログ [PR]