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【2024/04/24 14:31 】 |
NIKE,NICE
耐克(NIKE)80年代中国奥运创意广告

クリックして、動画を見よ。

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【2016/09/09 16:53 】 | n90年代 | 有り難いご意見(2)
ああ、懐かしの80,90年代
这是80年代末,90年代初的北京 (計4ページ)

面包车(面的)10kmまで10元。
计划生育の広告が多かった。
・木製乳母車多かった。
・人々の服の色は地味だった。

80年代、90年代を知る人、コメントください。

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【2016/08/02 06:31 】 | n90年代 | 有り難いご意見(7)
外貨兌換券、外国人料金に関してアンケート開始

私が留学していた90年代、中国人と外国人の使う貨幣が違った。たとえば、私は日本円の現金とトラベラーズチェックを持っていたのだが、それを銀行で中国元に替えると、外貨兌換券(FEC)を渡される。兌換券に対して、中国人が使うのは人民元。人民元だと、ドル等の外貨に両替できないし、北京だと友誼商店なんかは外貨券しか使えなかった。今調べたけど、兌換券は1979年から1995年まで流通していた。


私ら留学生、それでなくても中国語が上手じゃなくて、外国人だとバレて、ぼったくられるのがイヤなのに、兌換券を出すと、外国人であることがバレバレだ。当時は闇の両替所があって、そこへ行くと、1:1.5で、お金が多くもらえるので、皆さんよく利用していた。私が覚えている場所は語言学院の門の外の現像屋、三里屯のバー街の西側は小さい店が並んでいたが、そこの数軒などなど。
外国人がよく行く中国銀行の前だと、外国人を見かけては「change money」と話しかけて、換金しがたる中国人もよく立っていた。


当時は観光地に外国人料金があって、兵馬俑は30倍じゃなかったかな?だれか覚えてないかな?故宮もかなり違った。だから、日本人は人民元を持って、中国人のフリをして、中国人料金を利用したりした。外国人とバレないアジア人でよかったと思った。


1993年頃、一人で大連へ旅行に行き、海の近くのケーブルカー(だったかな?)に乗るときのこと。中国人料金と外国人料金の別のほか、片道か往復かを余儀なく選ばされた。それって、喋らなきゃいけないんじゃないか。人民元を出して、緊張して「单程」と言った。この[dān chéng]の発音でバレないかヒヤヒヤしながら。


古い皆さん!そういう思い出をアンケートに書いて欲しい。私、この大連の思い出しかない。そんなはずはなく、思い出したら、書き足す。


質問:外貨兌換券、外国人料金に関して思い出をどうぞ。
1. 成功した
2. 失敗した
3. その他


パソコンで見ている人は横のバーから、携帯等で見ている人はここから

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【2016/05/24 08:06 】 | n90年代 | 有り難いご意見(10)
懐かしいゴミ入れ




    21世紀の今、見なくなった。懐かしくて、悲鳴を上げそうになった。

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【2016/04/16 19:58 】 | n90年代 | 有り難いご意見(4)
読書関連文:『現代中国百景』で昔の北京を

  作者は新聞記者だった人なのだけど、文章が実に読みにくい。故意になんだけど、接続詞がない。文章をスパっスパっと書いてるつもりなんだろうが……。

1974年に初めて訪中しているので、私の知らないことがたくさん書いてある。順に言及したい。緑色はみどりの弁。


・土地の値段……1981年、北京の市街地で13畝=700万元(当時は1元=130円)、郊外が坪16000から26000円。
平米でないし、換金レートも違いすぎて、計算できない(保留)。

・国内の航空運賃、外国人は中国人の平均して2倍半。外国人なら10倍ふっかけろ。そもそも外国人と中国人で使うお札が違ったので、外国人用の紙幣を出す場合、北京の故宮や西安の兵馬俑とか、20倍くらいだった(不確か)。

・西単商店街。コンピュータが初めてショーウィンドーに登場。新婚用品専門店、歩道橋もここが初。新婚用品専門店、よーーく覚えてる。でも、西単の十字路のあたりだと南東のパン屋によく行った。今の「時代広場」(ってまだあるのか?)のあたり、ビエドフランスのパン屋があり、語学留学時代たまに買ってた。

・なんとしても現在10億の人口を2000年に12億までに抑えないといけない。婚姻法の改定の年が記されていないが、男20歳、女18歳で結婚できたのが、男22歳、女20歳になったと。私が留学終わって、就労ビザで働き始めたとき、中国人スタッフが言っていたが、1年に子どもを産んでいい人数が決まっていたと。この1年は何月から数え始めるんだろう?早いもん勝ちってこと?遅いと堕せ?なのか疑問だった。

・ディスコの中国語訳は二通り。「随便舞」と「迪斯科」。」。随便舞なんて初めて知った。こうやってどんどん死語になっていった、みどり様さえ知らない中国語たくさんあるんだろうなあ。

(テレビの)人気の番組はテレビ劇60%、芝居48%、ニュース42%。テレビ劇の中国語は电视剧であろう。当時は「ドラマ」という日本語が思いつかなかったか。

・(日本人の)いま中国みやげの人気ものは、水虫の薬「土槿皮酊」。あった、あった。商品名はすっかり忘れていたが、中国にはものすごくよく効く水虫の薬があると言われていて、お土産で買ってた人いたなあ。

・ラジカセは中国語で両用機。ラジオとカセットの二つ分の働きをするから。この中国語も淘汰された。中国では今でもこれを使うけど、收音机か录音机かな。

・「中国でも婚前交渉あるでしょう?」「ありますよ」「場所はどうするの?日本のようにホテルがあるわけじゃないし」「公園があるじゃないですか」「冬なんかさむいでしょうに」「二人の棉大衣で覆うと、もう二人の熱い世界ですよ」。1995年頃、大学を出たばかりの中国人男子が言っていた。学生寮は男子だけで8人部屋だったけど、彼女のいるヤツが連れ込んで、ガサゴソやっていた。バレて退学になったヤツもいる。

 とりあえず以上。



『現代中国百景』今田好彦著/中公新書

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【2015/12/12 11:20 】 | n90年代 | 有り難いご意見(6)
80年代90年代はこうだったin北京
  ヤフー知恵袋でこんなんっけた1980年代90年代北京ったのある方、体験談 以下、黒字がある回答。緑色は私の弁。

○ 天安門の前の道(長安街)を、横断歩道で渡れた。
○ 外国人専用の列車の切符売り場があった。 国費留学生は中国人料金なので、その子達の学生証借りて、切符買ったりしたなあ。
○ 外国人専用のお金があり、闇市で人民元と取り換えると最高2倍になった。
○ 外文書店には外国人立入禁止の売り場があった。外文書店の2階ね。灯市口の新華書店にもあった。私、「たけくらべ」買った。


○ 小学校教師の月給は100元程度、タクシー運転手は600元。車を運転できる=修理もできる。歴史博物館(今の国家博物館の館長は文部大臣クラスだが、運転手のほうが威張っていたと、92年に聞いた。


○ 市内電話をかけていると話中でも「長距離電話を繋ぐから、電話を切れ」と交換手が命令してくる。
○外国人料金を取るところも多かったので中国人のふりをして、人民元で払ってましたね。私、一人で大連旅行したとき、中国人のフリした。服も地味だったし、化粧しないし。でも、今思えば90年代初頭で20代女子が一人旅行ってなかったと思う。バレなかったけど、いつもヒヤヒヤしてた。


 ここ数年、様々な「市場」が閉店したり、引越ししたりしている。最近では「北京地安天意市场128日撤市」(ニュースここから。私は行ったことなかったから、思い入れはない。崇文门菜市场东单菜市场もとっくになくなり、たまに文房具を買っていた北京红桥玩具市场もこの10月に閉店した。红桥のほうもなくなるというウワサがあるけど、本当かな?雅秀はごちゃごちゃ感がなくなったし、時代とともにこうなっちゃうのは仕方がないと思っている。


  今日王府井に行ってきた。


  王府井大街。


   百货大楼。中は小綺麗になっている。10年以上、中に入っていないけど。


     北京穆斯林大厦穆斯林と関係ない店が入っている。


    外文书店

  中の古さ加減は変わらないなあ。


  旧中央美术学院陈列馆今は协和医院の所有

    协和医院西侧


  王府井书店が本日の目的だったのだが、地下はレストラン街になっていた。


    ドーナツ屋があった。16元から。2個買った。ドーナツは油っこいから好きじゃない。これはあまり油っこくない。でも食べないけど。





90年代懐かし~い情報、募集!

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【2015/12/11 18:11 】 | n90年代 | 有り難いご意見(3)
北京は空気が悪いってうるさい人達へ
  熟女10人のランチに参加するため、まず地下鉄「王府井」駅で降りる。左はドトールじゃなくてドドールがあるデパート。


   180度後ろを見る。

デパートの南の通りを西へ。つまり左は「北京饭店」。


   

ここを通るのどのくらいぶりか覚えていない。この右側はデパートと、建物は同じ色だが、西の方は「国际会展中心」になっている。このあたり、90年代は居住区で平屋ではなくて、2階建て(3階建てだったかな?)。1994年、徐冰が個展(パフォーマンス)をやったとき、ダンナに連れられて、私も見に行った。徐冰はダンナが美大に在籍していたときの版画学科の先生。中国の現代アートといえば、まずはこの人が挙がるくらい著名な画家。

   

パフォーマンスは当時かなり話題になった。歴史に残る作品だったと言ってもいい。オスとメスの豚をいっしょにしたら、することは一つ。そんな内容を94年に中国で上演(?)したのでビックリした。この記事を見て思い出した。会場は「翰墨」。現代アートの先駆けだった。

  
21世紀は北側がマンションになっている。私は歩きながら、90年代前半美大という学び舎をともにした、雪山嬢に見せる義務を感じた。

   この通り、途中にこんな広い道はなかった。

 

    突き当たりをちょっと右(北)へ行くと、位置的には「贵宾楼饭店」の北に当たり、以前からレストランがいくつかあった。厚かましくも銀座と呼ばれる王府井から徒歩ですぐのロケーションであるにも関わらず、ぱっとしないエリアだった。

    車が通る大通り南河沿大街より一本東の道晨光街を北へ。左側は雰囲気はまったく変わっていない。


    ほら。


    これこれ!雪山嬢。昔からこうだよね。高架下って感じの。


     この通り、左は「懐かしさ」しか感じないのに、右が高級マンションになっていた。私らは王府井大街の東に住んでいて、王府井大街を突っ切って、西側のこのあたりに御飯を食べに来たことがよくあった。目的地がどこだったか、まったく覚えていないので、雪山嬢、何を食べていたのか覚えていたら、教えて欲しい。現在の地図を見る限り、くねくねした細い道(わかる?王府井大街から西、北、西)、あの道が無くなっている。

    北上。東(大甜水井胡同)を望む。なんか建ててるなあ。


    留学時代、こんな西北へはほぼ行かなかった

  皇城根遗址公园という公園になったのは2001年のこと。


    この日のランチはさるお方の快気祝い。その人が中華が食べたいといい、幹事が北京料理で評価の高い店を調べて、灯市口西街を東に入ってすぐにある「味惠美」にしたのだが、住所が「康健胡同2」で、「康健胡同」は「健康」みたいだからと。

   北京ダックも頼んで、一人60元くらい。みーんな「美味しいね、この店」と。


    食後、老舎記念館へ行こうとしたら、工事中で、71日から参観できると貼り紙がしてあった。



    さらに東へ。





    王府井大街に戻って、南下。すぐに「王府井天主堂」が見える。この教会、こんなに露出度高くなかったよね?90年代はどうなっていたんだっけ?

   
   このすぐ南にMaan caféがあって、二次会。北京に支店の多いカフェなのだが、私は初めて入った。本日のコーヒー19元がアメリカかっ!とツッコみたくなるくらいデカかった。


  ここから王府井大街を南下して、地下鉄「王府井」の駅へ。

  90年代王府井ネタ、ちょっと思い出した。メモしておくわ。



(地図はクリックして拡大可)
A 地铁“王府井”
B 90年代初的“翰墨”
C 高架下
D 味美惠京味菜(大众点评
E 王府井天主堂
F Maan café
G “中央美术学院”原址


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【2015/06/11 17:07 】 | n90年代 | 有り難いご意見(8)
90年代留学生宿舎の電話の思い出in北京

今は留学生でも携帯電話を持っているんだろうから、学生宿舎に電話は要らないよね。90年代、私は北京の二つの大学に留学したが、どちらも部屋ごとに電話がついてはおらず、一階に一つ電話があって、鳴ると誰かが出る。日本人以外の外国人が出るかもしれないから、かける日本の親も英語で最小限は言えなきゃいけなかったり、または「502wǔ líng èr」とか部屋番号だけは中国語ができるようにしてあったり、、、だったんじゃなかったかな。

以下、学び舎をともにしたユキヤマ嬢のコメント。

90年代のこと。美院の宿舎の電話、夜になるとしょっちゅう鳴ってた。誰かが出て、誰かを呼ぶ。懐かしい電話室 (ボックス)

ある日、私が友人私が友人Aと長電話をしていたら、突然割り込まれた(といってもキャッチじゃない。そんなもんあるわけない。偶然私に電話をかけてきた友人Bが、何度も「話し中」と言われ、しびれを切らして交換台のおばちゃんに「いいから繋いでくれ」と頼んだのだった) 。友人ABは共通の友達だったので3人での会話となった。これはオモシロイ。もう一人加えようということになり、私が別の階の電話から友人Cに「私に電話して! 話し中でもいいから繋いでっておばちゃんに言ってみて!」と頼んだ。

数分後、難なく友人Cが加わって4人になった。 すごいー! と言い合った瞬間、4人では声がぶつかり合って会話が成り立たないことに気付いた。。。こんなこともできるのか! という驚きはあったが、4人だと誰かが沈黙していなければならず、「アホやな」と言われても仕方のないユキヤマであった。

ここからみどり。各階にあった電話ボックスから市内にかけることはでき、電話を受けることもできたが、国際電話をかけるのは地下の特別電話室へ行かなければならなかった。そこに常駐しているオバちゃんに電話料金を支払うんだけど、電話を切ると、オバちゃんが電話局に電話して「今の電話代いくら?」と聞く。

私が一度実家にかけたとき、母と「もしもし」しか言えなくて電話がプツっと切れた。どこの不都合かわからなかったがい本来ならこれでも1分の料金は支払わなきゃいけない。オバちゃんは「今まったく会話してないってことにして」と私に言い、電話局には「しゃべってないんから支払えないよ」と言う。しばらく払う払わないでもめていた。私に「通じなかったって言いなさい」と受話器を渡される。とっさに中国語で何て言っていいかわからず、「
我,我没说话」とかなんとか言ったような。そしてまんまとその分の電話代はタダに。中国は言ったもん勝ち!主張が強ければ通ることたびたび。

あと、忘れもしない4月のあの日。美大なんて留学生少ないから、美大なんて留学生少ないから、8階女子、9階男子。部屋にいたらノックされて「みどりさんに電話がね。9階に来ちゃったんだよね」と呼びに来てくれた日本人男子。男子階の9階まで行って、電話を取る。「喂,你是○○○吗?」と私のフルネームを言う中国人。「是」と答える私。そして「我是高桥」。え?高・桥(gāo qiáo。おいおい!私を呼びに来た日本人じゃないかよ。電話を切って、8階に戻る。8階の電話のところにいて笑顔で私を迎える高橋。今日は愚人节(エイプリルフール)だからって。おいおい!まんまと騙されたわい。

あ、あとね。電話機が頻繁に盗まれたのよね。留学生宿舎は学生宿舎の8.9階で、下は中国人学生。ほかの大学の留学生宿舎みたいに、建物の入口に門番がいなかったから、誰でもいつでも入り込めた。シャワーも8.9階のを留学生以外に使われちゃうからって、私がいた二年目から鍵がついたんだよなあ。

ユキヤマ嬢、懐かしいよね。なんかあったらまた書き込んで!


おまけ:今日のコメントに関連して「4人で一緒に」なら是非この動画をと無理やりこじつける。今日初めてゆっくり見た『最美和声』という歌のコンテスト番組。一人が歌い、この人いいなと思う審査員はボタンを押すと、マイクがやってくる。そこで合唱する。この手の歌番組、審査員はいずれも著名な歌手で、お金かかってるなあとつくづく思う。みんな主張強いから、合唱しすぎっちゅうか。でも歌が上手い人を見るのは気持ちがいい。審査員もこの職業愛してます感が溢れていていい。

・全部見たい人はここへ→「最美和声 140419」(81分)。


・一曲でいいならたとえばここへ→「我愿意」(9分)。

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【2014/05/20 12:00 】 | n90年代 | 有り難いご意見(18)
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