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【2024/04/25 15:09 】 |
よくお土産を買った場所とモノのコメント返し
淳子さん:友谊商店はアイス屋さんがあったからよく行ってましたよ。大抵はロイヤルゼリーや羊の胎盤クリームを買ってました。 あとは塞特とかでパンダチョコを買ってました。

鼓楼近くの洋服屋で父にブルゾンを買ったことがありました。とても安かったと思う。数年後に真空パックになってる北京烤鸭を買って帰ったことあります。 美味しかったなぁ。

それから2000年近くには百貨店で、メイベリンとか化粧品コーナーが出来始めて、メイベリンのリップがやたら安いから爆買いしたわ。保定で。

みどり:90年代前半のお土産の定番は友誼商店でロイヤルゼリー、片子癀のパールクリーム。

羊の胎盤クリームが分からない。鼓楼近くで買い物したことはない。というか、あのあたりほぼ行ったことなかった。メイベリンはテレビCMをよく見た。


功夫さん:初中国の89年1月、王府井の百貨店?で当時の同僚だった女の子に、青色ベースで花の刺繍が入ったチャイナドレスを買って帰りました。その娘のサイズなど知らなかったので、勘で選びました。帰国後チャイナドレスを渡し、喜んでもらいましたが、それを着た姿を見ることはありませんでした。数年後、「お姉さんが、友人の結婚披露宴に参加した時に着て行ったよ」と、僕がその娘と結婚してから聞きました。

みどり:日本人留学生、本帰国の直前にオーダーでチャイナドレスを作ってる人多かった。私は今より8キロくらい体重が少なかったが、それでも「太ってる人が作るのは」と遠慮した。実際痩せてない人が着せてみてくれて、価値観が違うんだと思った。

東北さん:人民元を買いました。 あの辺りは个体户(今はこれ死語?かぁ)がぎっしり露天商い(夏祭りの夜店状態)していました。このおかげで、留学生の私らは時々プチ贅沢して北京飯店の『五人なんたら?』で涙が出るくらい、美味しかった定食食べられました。

みどり:人民元は語言学院で換えていた。秀水は露天でしたよね。南(長安街側)から入ってすぐ右に屋根があるところがあって、それはそこの建物の一階だった?建物から突き出て、屋根があった?秀水はTシャツ、ダウン、シルクいっさいがっさい(パンツ、パジャマ、シャツ)、小物も売ってましたっけ?写真撮っておけばよかったな。

『五人百姓』は今でもある。当時は京樽がやっていた。大学が近くでしたが、私の前の代の日本人二人が先生と同学達にお世話になったといって、ご馳走したらしい。そんなんできないわ!と思って、私はしなかった。大众点评で調べた。ここへ


マリさん:秀水市場とか、友誼商店、工艺美术服务部,外文书店,琉璃厂,前门,潘家园,红桥は、皆さんも出かけていたと思います。私は、白孔雀芸術世界(住所 徳勝門外北濱河路39号)なんて所にも行きました。友誼商店っぽかったけれど、ロウケツ染めクロスとか買いました。秀水は、よくシルクのパジャマを頼まれました。

チャイナドレスは、婚約のお祝いに義両親がプレゼントしてくれました。布は、前門で買って、新街口の小さなお店で採寸して仕立ててもらいました。新街口商场の裏隣の店ですが、最近無くなってしまいました。

みどり:白孔雀芸術世界って行ったことあったのかも忘れたけど、場所はわかる。なんで住所が正確に書けるの?まさか今でもある?工艺美术服务部は王府井だよね。今もある。10年くらい前に従兄が北京に仕事で来て、一緒に行って、彼が奥さんにネックレスを買ったのが最後で行ってない。

新街口商场、わかる。新街口は最近ではギター買おうと思って行ったのが今年一回。その前は8年くらい前(ご本人達読んでると思うけど)、駐在員の奥様達とTシャツを買いに行った。私はタンクトップで前に中国の国歌が印刷されているのを買った。ヤフーのブログに書いてあるはず。あの店あのあとすぐなくなったけど、そういうTシャツ欲しい。

最後に私から。痩せる石鹸をお土産に頼まれたよね。どこで買ってたんだろう?日本だと3個1万円。北京で1個30元くらいだった?

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【2017/07/16 08:30 】 | n90年代 | 有り難いご意見(5)
よくお土産を買った場所とモノ(90年代)
数日前の私のブログのコメント。「秀水市场はバッタもので ごった返してましたね。よくシルクのトランクスを男性用お土産に買ってましたー!」。

90年代(80年代でもいいけど)は日本へのお土産を買う場所は友誼商店くらいだった?

秀水はシルクマーケットと言われていたので、シルク製品を買うか、あとは偽ブランドのバッグ。90年代初めは今の秀水のビルのすぐ東に細い道があって、北にあるアメリカ大使館のところまで路上で売っていた。私はダウンコートを240元くらいで買った。


紅橋はパールマーケットだから、真珠を奥さんたちがよく買っていた。お店の人と知り合いになって「○番がいい」と店の番号を覚えてというのは、いまでもあるのかな。私は真珠を一度も買ったことない。

今日は「ここで何を買いました」を書いて欲しい。

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【2017/07/15 05:09 】 | n90年代 | 有り難いご意見(12)
コメント欄で盛り上がりすぎ(キリがないから、このくらいにしといてやる)
読者によるコメント=茶色。みどりのコメント返し=緑色

1. あの時代はビンボーで、不便で メチャクチャだったけど 面白かったと思います

本当にそのとおり。ビンボーだった。会社から派遣で来ている、または社会人の経験がなくて親が費用を思う存分出してくれる留学生以外は質素だった。そもそもお金を出しても、今のように何でもある便利な北京生活ではなかった。

2. 北京駅に鮮やかなポスターが 貼ってあって、見たら 列車爆発の被害者の見るも無残なお顔、遺体が何枚も 印刷されてて、それから 怖くて、しばらく1人でトイレに行けませんでした

それは「血的教訓」。北京駅にあったよね。「危険物を持ち込むとこういうことになりますよ」という、血だらけの生々しい写真がたくさん貼ってあった。

3. トイレと言えば、語言に住んでましたが、個室の鍵が壊れていて、いつも割り箸の1本で穴に通して鍵代わりになっていました。こんなオンボロ宿舎は語言だけでしょうか?

大爆笑。箸って……。中国人はビールを栓抜きでなく、箸二本で開けるのも、当時結構ビックリした私。

4.片仔癀、91年に友誼商店で大量に買いました。

片仔癀のパールクリームかロイヤルゼリーは当時のお土産の定番。

5.おそらく北京初の日本人板さんがいらした、80年代猛烈日本人ビジネスマンのオアシスだった『居酒屋兆治』どこら辺りでしたか?

发展大厦の向かいです。三環路沿い。詳しくは過去記事へ。私よりもっと古いオジ様達がコメント欄に「戦後(1945年)以降、北京で最初の日本料理屋は”和風”(元の東安市場内)で1960年代」等とネットで探しても書いてないようなことを書いていらっしゃる。

その近くに(霄云路の入口あたり)当時としては珍しい、日本語の歌があるカラオケ屋がありました。95年に私が結婚したとき、結婚祝いに(おいおい、そのおいわい)日本人女性二人が私を導いた。私が「古城」(三橋美智也)を唄い、二人から「どんな選曲よ?」とツッコまれた。

6. 養老の滝あったよね?

あちきが留学終わって、就労ビザで働き始めたとき、このあたりまで出勤してた。交通が不便で、うちからエラく遠かった。養老の滝は何回か行った。アジア村に「かに道楽「もあった。行ったことなかったけど。どちらも本物だったのか不明。

7.小公共汽車は乗客が集まるまで待っている間に、アイス売りの女の子が乗って来て商売してました。鄭州でのことですが。

今思うと、昔のほうが秩序なく、取締もあまかった。21世紀の首都北京は路上のモノ売りが激減した。90年代は書家の訪中団がよく来たので、そのツアーに同行したことが何度もあって、レストランからバスに乗ろうとすると、「あ、外国人(=カモ)来た」って感じで、物売りがすごくて、まずは「せんせい!せんせい!」って日本語言う。その後「せんえん!せんえん!」。扇子10個千円、ハンカチ10枚千円等。

8. 真面目な留学生じゃなかったので! 毎週金曜日の夜は昆仑饭店のディスコ←今で言うクラブ?に通ってました。 学割で50元、ワンドリンク付き。最後の〆の曲は、映画ボディーガードの主題歌。日本人、結構来てた。 あと、場所は忘れたけど スザンナというディスコもありましたね。行ったことがないけど。

語言学院の中にも小さなディスコがありました。シャングリラ饭店のディスコにも連れて行ってもらいました。

昆仑饭店のディスコは若い子達が行っていた(あちきも20代だったが)。北太平庄と积水潭にあった(どっちかがスザンナだと思う)。私はディスコなんて卒業していたが(本当か?)、ダンナ(そのときまだ結婚してないが)が行くというので何回かついていった。著名画家、方力钧も来てた。

昆仑饭店って当時結構日本人観光客、ビジネスマンが泊まっていて、エレベーターにかならず体を売る女性(どうよ、この言い方)がいて、男性を見ると誘っていた。

9.ディスコって、北京电影学院の所にNASAというのがあった。 あと、北太平庄に8番ラーメン、美国加州牛肉面大王があった。

NASA!懐かしい!!行ったことないけど。八番ラーメンは存在だけ知っているが、できたときに私はそこから引越ししていたので、店を見たこともなかった。美国加州牛肉面大王は何軒かあったよね?みんなで「本当にカリフォルニアに本店があるのか」なんて言ってた。

10. 93年2月、天津留学中に北京に何度か行きました。確か2月には地下鉄料金は5角均一で、3月に行ったら急に2元に値上がりしていて、4倍の値上げにびっくりしたのを覚えています。

これに関して調べてくれた方あり。写真載ってる。

北京地铁票价变化史
图解北京公交车票的发展历史

11.民族学院の近くに新疆料理屋があって、インド料理でいうナンみたいな饼が美味しかったですね。

民族学院の近くの新疆料理屋!!!!あった!!!!何軒もあって、新疆街だった。ゴミゴミしていて、衛生面はかなり心配だったが、食べた。

12.留学先の大学のトイレ、大の方には使用済みのトイレットペーパーを捨てるカゴがありましたね。昨年台湾へ語学研修に行った先の語学学校のトイレも、トイレットペーパーを流さないで溜めるようになっていました。

日本でなぜトイレに紙が流せるかというと、溶けるからだよね。中国のは厚い。昨今はティッシュペーパー(ボックス、ポケットともに)が普及しているけど、当時はトイレットペーパーの形のを部屋で使っていた。それを見た(東京から旅行にきた)実弟が「そうか、そっちでもいいのか」と実家でも使おうとしていたが、日本のトイレットペーパーは薄すぎた。鼻かんでもビシャビシャになるし、用途が違う。

現在、娘の大学の留学生宿舎のトイレもゴミ箱があると。娘曰く「ゴミ箱のあるトイレはそこに捨てる。ないと流す」。今、ローカルの中国人の家に行っても、トイレでそのまま紙は捨てる。古い建物だと下水の設備がしっかりしていないから、流しちゃいけないんでしょう。


13.90年代の冬の男性のアウターと言えば、ほぼ皆さん黒の革ジャンでした。今ほとんど見ないですね。

革ジャンはなんとなく覚えている。それよりサングラスかな。日本だと真っ黒のサングラスしてる人はあまりいないけど、非常に多かった。しかもデカい。実弟が北京に旅行に来て、「なんで中国人はグラサン多いんだよ。あんなデカいの、日本なら石原軍団かあゆかhitomiくらいだ」とツッコんだ。

とりあえず以上。

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【2017/02/26 18:13 】 | n90年代 | 有り難いご意見(5)
1990年代ワールドへようこそ
90年代を知る皆さんはコメント欄でかなりお楽しみいただけていると思うが、まだ続く。

コメント返しを打っていたら、かなり長くなってしまったので、記事の方にする。(読者によるコメント=茶色。みどりのコメント返し=緑色)。

1.エレベーターにはそこがあなたの部屋か?という位、飲み物があったり、大体編み物していたりしましたね。頻繁に壊れるからいるんだと思ってました。

「エレベーターにはそこがあなたの部屋か?」に、あまり爆笑しない「笑点高」の私が爆笑。そうそう、決まって編み物やってた。そもそも司机専用の机があるからだよね。そこにまずは飲み物。あと新聞?いろいろ置いてあった。

2.私も93年から94年にかけて1年留学してました。車掌さんに行先とか言えなかったから、1か月10元乗り放題の月票を買ってました。バス停は時刻表どころか看板すらなくて、どこで降りたらいいのかわからなかったし。月票なら、無言OK!

バスの乗り放題は10元だったか。地下鉄の路線が増えて、最後バスの定期を廃止する頃には30元だった。月末に翌月のを買うんだけど、マクドナルドでも売るようになったのが、1997年くらいかな。

3.小公共汽车があった。バスが満員になるまで発車しない。

小公共汽车はゴミゴミしてた。無理やり人を詰めてね。私が95年の7月留学が終わる直前に日本から友達が旅行に来て、一緒に乗って、彼女が車内の写真を撮ったら、お金徴収する人が怒っちゃって、フィルム出せって出させられた。怖かった。正規のじゃなかっただからだろうね。あと、ちょっと中心から遠いほうで、恐喝みたいな小公共汽车に遭ってしまった日本人留学生の話も聞いた。

4.面包车、これは懐かしい!たまに座席の床が抜けてて、冬は寒かったです。でも10元が初乗りで安かった。五つ星ホテルの車寄せには進入禁止。悲しい存在。

面包车、車体の床に穴があいてて、走りながら「あーあ、道路見えてるよー」とか言ってた。10元で10キロだったよね。

5. 91、92年に旅行で来た時は秀水で、ネクタイやトランクス、パジャマのシルク製品をお土産に買った。すごく安かった。バッタ物も多かったです。友谊商店は日本では高価だったロイヤルゼリーが安くて大量買い。

私もダウンは秀水で買って、150元位払ったので、あとでみんなに高いと言われた。でも質は良かったからいいとした。友谊商店でロイヤルゼリー、私も買った。帰国して親戚にあげたら、その場で飲んだのね。すごく苦い顔をしたのを私は見逃さなかった。あの頃のお土産定番は「片仔癀」の真珠クリーム。今、南锣鼓巷で売っていて、「懐かしい!」と。痩せる石鹸は1996年頃?当時、日本では3個1万円。北京だと1個30元?(誰か覚えてる?)痩せる石鹸で儲けて、社員旅行が海外だったという会社があった(とニュースになってた)。

6.バスの床が板だったのと、真ん中がジャバラで繋がっていたのが珍しかったです。電力不足でしょっちゅう停電や教室のクーラーが止まっていました。

バスのジャバラはいつの間にかなくなった(あれ?まだあったっけ?)。中国に来る前、「公共汽车」「无轨电车」という中国語を勉強させられた。でも、実際来てみたら、中国人は「公交车」、「电车」と言っていた。

私は大学にいる間、部屋の停電はあまりなかった(忘れているだけかも。あ、何回もろうそく付けた覚えがあるな。)。でも、美大のとき8階に住んでいて、エレベーターがよく止まった。階段で部屋に上がるのだけど、6階までは結構勢いよく行って、そこから「あと2階頑張ろう」と。


7. 歌手のカセットテープが10元、安くて驚きました。が、違法品とは知らなかったです。CDショップに売っているのだから正規品だと思っていました。

中国で買ったテープ等のアンケートを設定した。横のバーからお願い。携帯で見ている人はここから。コメント欄には何年頃なのかも書いて欲しい。最近でも宜し。



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【2017/02/23 08:24 】 | n90年代 | 有り難いご意見(28)
記憶喪失部分を尋ねる
本日のコメントより(読者によるコメント=茶色。みどりのコメント返し=緑色)。

私が留学していた90年代は地下鉄が一律料金(2元)で、入り口に切符を破るおばちゃんがいました。

 日本も昔は自動改札じゃなくて、切符を切っていた。中国の地下鉄が以前どうだったかまったく覚えていない。地下鉄は2元だった。バスは1角だった?私は1991年のことを言ってるんだけど。バスの定期を買えば乗り放題だった。今は乗り放題がないな。

北京晩報(夕刊)は1角から2角、5角とどんどん値上げしていった。



バスの切符も人の手からしか買えなくて、 混んでるバスの中をかき分けて買ったのを覚えてます。

  行き先を言わなきゃいけないから、中国語できない外国人が結構困っていた。発音が悪くて通じないという人もいた。

語言学院に留学中に 学内にビ・ド・フランスが 突然出来た。

  VIE DE FRANCEは西単の交差点の南東にできたのが一号店かな?前門のケンタッキーのとなりにもあった。

チーズはヤオハンで買った。

  CRAFTの塗るチーズが、北太平庄の商場の二階に売っていた。1992年頃、中国人がまだチーズ食べない頃に。あれは忘れられない。チーズとかスパゲティはリドのスーパーか、友誼商店。のちに国貿の地下にWelcomeという香港系のスーパーができて、洋食になるようなモノを売っていた。日本のポン酢もあったが、輸入もので日本円で600円くらいだったので、買えなかった。日本人用マンションの天壇公寓のスーパーで、ちくわがこれまた600円くらいだった。買えなかった。

ヤオハンまだある?

とっくにないよ。ヤオハンがあったときから「赛特」と言っていたけど、ヤオハンの中国語で「八百伴」というのもあった。誰も口からは出てこないが、名前は知っていた。当時和田一夫は香港のすんごい豪邸に住んでいたとニュースになったよね。


  昔を知る皆さん、登場しておくれ。

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【2017/02/21 21:23 】 | n90年代 | 有り難いご意見(11)
崇文門マキシム
珍しく家族四人で崇文門で食事をすることになって、ウロウロして、崇文門飯店に入ってみた。


このホテルは1978年開業。向かいに哈德门饭店という古めかしいホテルもあったが、今はデカいショッピングモールになってしもうた。

崇文門飯店に「淮扬村饭庄」という大きな看板があったので、晩ご飯はそこにした。ホテルの中に入ると、すぐに「マキシム」の看板がある。行ったことない。正装じゃなきゃ入れないんだよね。以前は隣接して「ミニマム」という安い版があって、そっちへは行ったことがある。

1階から2階の「マキシム」を見やる貧乏人。


バレンタインデーアベックコース1718(いーないーわ)元と1918(いくいーわ)元。


エレベーターで3階の科力淮扬村大众点评)へ。淮扬菜中,“扬”即扬菜,以扬州一带为代表的长江流域,“淮”即淮菜,以淮安一带为代表的淮河流域。長江、淮河流域の料理。北京のような「はい、炒めて塩入れました」という大味ではなく、やさしい、日本人好みの味。


海鮮を頼まなければ、1人70元くらいかな。私らはもっと安くて、4人で200元くらい。

ホテルの南側にパン屋があった。マキシムのパン屋の割には安いが、“一分钱一分货”の格言どおり、パンの出来はいまいち。


さらに南下。以前の崇文門市場のあたりはこんな近代的なビルディングに。中は電気が付いていて、ヒトがいたが、営業は開始していないようだった。



ダンナの出た美大=私の留学していた美大から近いので、崇文門市場も行ったけど、あまり買ったことはなかった。それよりここから北上して、今の東方新天地の一番東にあった、東単市場のほうが、大学からもっと近いのでよく行った。ダンナはどっちもよく覚えていた。

以上。

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【2017/02/18 09:59 】 | n90年代 | 有り難いご意見(7)
懐かしの新僑飯店
崇文門あたりで晩ご飯を食べることになって、郷愁に浸ろうと、新僑飯店へ行った。90年代の初め、1階のレストランに当時は珍しい洋食があった。一般的なホテルの洋食のように格式高いんじゃなくて、ファーストフードっぽい感覚で、値段も安かった。当時同室だった沖縄出身の子と一緒に行って、ビーフシチューを食べ、彼女が「おいしいね」と言ったのをはっきり覚えている。そのときは中華もあったような気もするが、よく覚えていない。

二回は食べたと思うけど、20年以上行っていなかった。

中に入ろうとすると、「洋食ですが」と服務員が言う。客で、中に入ったら中華じゃなかった。出ようという人もいたんだろう。外にデカデカと「西餐庁」って書いてあるけど。

座る。メニューを見る。バカ高い。娘が出ようと言う。本当に迷った。スパゲティ98元。ほぼ88元から128元。暫し迷い、一回食べてみることにした。


罐焖鸡88元,奶汁烤杂拌98元。

↑これはレシートを見て書いたけど、メニューにはどちらも俄式と書いてあった。ロシア料理はどこでも食べられるわけじゃないから、頼んだのに、別に~という結果に。大きさを知らしめたくて、ボールペンを置いたから、よく見て!

主食が入ってないから、ドリアでもグラタンでもない。中はゆで卵と、澱粉を大量に含んだハムとソーセージ。ホワイトソースも澱粉入れすぎ感が満ち満ちていて、弾力があった。シチューの鶏は柔らかいし、味も良かったけど、表面はすぐに油と分離され、どんだけ油入れてんのよと心でツッコんだ。

コストパフォーマンスがこんなにも低い食事、久しぶりだな。

トイレに行った。トイレはレストランの中ではなく、ホテルの中だ。そこへ行くまでに写真が飾ってある廊下を通るのだが、これは懐かしい。









新侨三宝乐三宝乐はSAPPOROだ。今は経営が日系じゃないらしいけど、90年代は日系だと思って、行っていた。横にパン屋があって、そこではよく買った。21世紀の現代も、パン屋はあって、味や質が20世紀のままなのは、私たちにいつでも郷愁に浸らせるためなのか。

大众点评を見たら評価が高いんだけど、400元以上するステーキとか頼んだら、満足行く食事ができるのかな。

私は写真が見られて良かったと自分を慰める。もう食べることはないな。

新侨三宝乐西餐厅(大众点评)

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【2017/02/05 08:11 】 | n90年代 | 有り難いご意見(8)
古い皆さん、お待たせしました。古いネタ
1. 90年代の画像。

昌河、大发、皇冠、切诺基、桑塔纳、捷达、富康、拉达、212、虎头奔、夏利、红叶、标志505、帕萨特B3、奥迪100,基本就是那个时代全部的车型


2. 70年代からの歌。年齢がバレてしまうシリーズって。ぷっ。

暴露年龄系列!81首超经典老歌合集!

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【2016/12/30 18:41 】 | n90年代 | 有り難いご意見(0)
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