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【2024/04/26 05:05 】 |
90年代の病院事情を大大募集!in北京
 私が2000年に北京で出産したとき、外国人が中国で出産していいローカル病院は協和医院、中日友好医院、友誼医院のみと限定されていた。大昔は中国で外国人の住むところが限定されていたように(外交なんとか、友誼賓館とか)、ローカル病院も最近まで「ここ!」じゃなきゃダメだった。まだ外資系が少なかったし、2000年以降、思いっきりローカルの「婦産医院」でどうにか許可を得て、産んでいた日本人もいたなあ。選択肢が増えていったのだった。
 
 92年だったかな。足をくじいて、留学していた大学(海淀区)から遠くない病院ということで、迷わず中日友好医院へ行った。後に留学先が王府井になったので、協和医院へ行くようになった。一般的にこの二つの病院以外は考えられなかった。いずれも外国人用の外来に行き、外国人とエラい人(中国語で「高干」って書いてあった「高级干部」の略)専門のところで診てもらった。今は外国人かどうかではなく、お金があれば中国人もその特別なほうで診てもらえるようになったよね。
 
 
 ネットで見つけたトホホな記事(1982年の話)。
 肝炎については後日談がある。とにかく何とかしなければならない。しかし日本大使館はあてにならなかった。北京に着いた時,大使館を表敬訪問したことがあった。そこである医師を紹介された。とても忙しそうに見えた。なんでも彼は中国だけではなく,モンゴルと香港を含む地区の担当医なので,あっちこっちに行かなければならないという。彼は言った。「ジンギスカンも真っ青ですわ」。それを聞いたこちらも真っ青である。そのうち電話が鳴った。テニスをやっていて腕を骨折してしまったという在留邦人からのものであった。医師は次のように親切に指示した。「接木でもしておきなさい!」。日中友好病院などいまだない時代だったのである。
 
 
 地方で病院のお世話になったこともないし、私は当時外国人用のところに行っていたので、90年代だからといって、困ったことはなかったけど、ネタのある人はコメント欄に披露してください。

拍手[7回]

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【2011/10/26 08:42 】 | n90年代 | 有り難いご意見(19) | トラックバック()
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有り難いご意見
病院
留学中は、大学の医務室が診てくれたようですが、私は行ったことが無いです。友人の付き添いで行って、彼女はお尻に注射されていました。たしか風邪でしたね~。設備は学校の医務室っていう感じだったな~。今はそこらへんの病院に外国人でもいけるもんね、勇気と語学力と忍耐力があれば。
【2011/10/26 09:41】| | nuu #5828ab740a [ 編集 ]


お~
久しぶりにネタがあるテーマだ。
後ほどコメントします。
【2011/10/26 11:59】| | 功夫man #54985ffffa [ 編集 ]


協和医院お世話になりました
協和医院が近くてホントによかった。最敬礼です。
度々お世話になっていたので、色んな科の先生が覚えて下さっていて「今日はどうした?、この間の、よくなったか?」と声をかけてくださいました。
病院というと我慢できなくなるギリギリまで行かないもので、急診(旧館の方)でもよく診てもらいました。
ロックフェラー財団が創設したということは知っていましたが、そのためか旧館の方は趣のある建物でした。
大きな古時計とか、真鍮のドアノブとか。しかも入口に置いた古机で宿直をしておられたのが白ひげのおじいちゃん先生で、ホントに別の時代に迷い込んだ感じがしました。
後から考えると、あのおじいちゃん先生は、患者が急を要するかどうかや、どの科の医師を呼んで診察させるのかを判断できる老先生だったのだと思います。
かかりつけの、しかも良い病院が近くにあるのは、有難いことでした。
【2011/10/26 19:18】| | yukiyama #9b3a05a2b7 [ 編集 ]


当時は・・・
私は協和病院には行ったことが無く、家からまあまあ近い中日友好病院が多かった。
歯痛で治療に行った時、歯石を取って下さいとやってきた日本人の患者に、治療しかしません!と医者が断ってたのを思い出しました。婦人科には、日本語の多少出来る女医(婦人科は女医が殆どと聞いたけどどうなの?)さんが居て、ホッとしたのを覚えています。
また、当時は実名制で受診じゃなかったので、簡単な病気だと妹の名を騙り?、旦那の職場の診療所・北医三院・天壇の口腔医院も受診しちゃいました!ばれなかったのか、見逃してくれたのかはわからないけど・・・。安かったですよ!!
【2011/10/26 21:32】| | マリズ #5804baaddf [ 編集 ]


生きた北京医療20年史・みどり
上記に出ていた某HOSPITAL・・・。
よい施設だとは思うのですが、留学時代の仲間がここに入院したがために肺炎を悪化させ、緊急帰国したことがあります。あと院内感染して留学を中途終了したコも(06~07年の話)。

僕は08年5月の深夜、クビに激痛が走ってのた打ち回り、そのHOSPITALに駆け込みました。頚椎椎間板のヘルニアだったのですが、とにかく激痛でクビが動かせない。医師は「要打嗎啡止痛,行嗎(マァフェイを注射するでぇ)」。「マァフェイ」が「?」だった僕は、「有鎮痛效果那什麽都可以打(痛みが取れるなら何でも打てや)!」と。結果、「マァフェイ」効果でスグに痛みは引いたものの、ほどなく黄疸症状が出て肝炎が再発し、帰国入院する事態に……。

「嗎啡(マァフェイ)」っが「モルヒネ」と知ったのは緊急帰国前のこと。日本の医師は、「ちょ……! 一体、いつの時代の話ですか…」と。モルヒネは肝臓に重い負担を与えるので、打つべきではなかったようです。

北京協和醫院の建築は素晴らしいですよね。yukiyamaさんの書かれている宮殿風の舊樓群は保存しつつ、まもなく、巨大なビルディング(新門診樓・新手術科室樓・新病房)が竣工ですが。協和醫院は、その改名フェチっぷりも笑えます。ミド氏が北京の土を踏んだ当時は「北京反帝(=反對帝國主義)醫院」! 当時は東單二條胡同が「反帝醫院南路」、西長安街が「毛澤東大道」、東長安街が「東方紅路」だったそうで、ミド氏もたまに会話の中で、「じゃ、東方紅路の長安大戲院で2時に…」とか言ってますね~。

1921~29…北京協和醫學院醫院
1929~41…私立北平醫學院醫院(國民黨時代)
1941~45…大日本帝國陸軍第27師團北平陸軍病院(日本の北京占領期。北京原人の骨が・・!)
1945~49…北京協和醫學院醫院(元に戻る)
1949~57…中國協和醫學院醫院(中共中央軍委の傘下に)
1957~59…中國醫學科學院醫院(國家衛生部の傘下に)
1959~66…中國醫科大學附屬醫院(ガッコも国営に)
1966~77…北京反帝醫院(溥儀は67年にココで死亡)
1977~85…首都醫院
1985~now…北京協和醫院
【2011/10/27 13:58】| | benz770k #9b279c4ecf [ 編集 ]


Re:90年代の病院事情を大大募集!in北京
医療と関係のないことを書いてすみません。
ピンク字の方が、「北京原人の骨が・・・」
気になります。
当時はそこの病院に有ったのでしょうか。今その骨は行方不明と聞いています。
【2011/10/28 08:21】| | jojo #526fa910e6 [ 編集 ]


看病
留学期間(91~93年)に病院へはそれほど多く行かなかったですね。
北京に来て間もないころ、大学が新留学生を連れてどこの医療機関だったか覚えていませんが、身体検査に連れて行きませんでしたか?
留学には身体検査証明が必要と言われ、数万円払って鹿児島の大きな病院で身体検査をして書類を持って行っていたのに、全部やり直すとは・・・。それも日本ほど精密な検査じゃなかった。どこでしたっけ?みどりさん、一緒に行ってません?

中日友好医院へは、留学1ヶ月後くらいで行きました、風邪と熱発で。当時はほとんど中国語を話せなかったので、事前に場所を同屋に聞いて、バスの停留所名の発音も教えてもらって決死の覚悟で行きました。日本人の看護師さんがいましたが、とても忙しいらしく少しだけどこに申し込めばいいのかを教えてくれただけで、後はひとりで四苦八苦しながら診てもらいました。へたくそでも中国語よりは意思の通じる英語で診察を受けた気がします。
女医さんに「中国語を勉強して、次に受診に来たときは中国語で話します」と伝えましたが、その次回はありませんでした。その後病気にならなかったんですね、鍛えていたから。

 大学構内にも診療所があったですよね。僕は診てもらっていませんが、同屋が風邪をひき、市内の病院(中日友好病院だったか一般病院だったか分かりません)で診てもらい、飲み薬ではなく、注射セットをもらってきて、大学構内の診療所でこの注射を打ってもらえ、と。1,2回は診療所へ行っていましたが、ある日夜になってから彼が診療所へ行き忘れたことに気づき、僕は、どうするのかな、と思っていたら、クラスメートの日本で看護師をしていたという日本人女性に部屋で打ってもらってました。臀部に打つやつを。今にして思えば、酒精綿とか消毒薬はあったのかな。
校内の診療所といえば、偶然知り合った日本人旅行者がホテルを決めてない、というので、診療所の招待所を紹介してあげたこともありました。安かったですよ。

 協和医院へは、当時の彼女の友人が入院していた時に、お見舞いに行きました。格調のある立派な建物でしたね。その友人は中国語レベルが高かったので、中国人看護婦さんや医師と何の問題もなく会話していましたが、その様子を見て僕は、とても自分の病状とかを伝えられないなぁと思ってました。

 やっぱり留学中はあまり病院と縁がなかったんですね。思い出してみると。
【2011/10/29 10:52】| | 功夫man #7dbe4d260d [ 編集 ]


謹啓jojo女史
歴史好きのjojo女史的には、「最後の大清帝國皇帝が北京反帝醫院で死んだ」って皮肉に突っ込んでいただきたかった。。。

北京原人の発掘や研究は、中国そっちのけでロックフェラー財団主導でがしがし進められていて、骨も、ロックフェラー財団の建設・運営による北京協和醫學院(現・協和醫科大學)の新生代研究室金庫に保管されていたんですよね。で、1941年末になっていよいよ日米開戦が現実味を帯びる中、骨を疎開させることになったんです。当時、北京は日本占領下。開戦したら即・骨は日本のものになっちゃうから……。それゆえロックフェラー財団は12月5日、木箱に詰めて協和醫院から秦皇島のほうへ向かう列車に乗せ、最終的にアメリカ本土へ送るはずだったのですが、12月8日に日米開戦となり、輸送中の列車だか客船だかが日本軍に攻撃されて行方不明になったようですね。確かなのは、「12月5日に木箱へ梱包at the協和醫院」ってとこまで。日米開戦後、我が帝國陸軍は真っ先に協和醫院を捜索し、骨を捜したけど見つからなかった、と。
【2011/10/30 21:17】| | benz770k #3a17f7f0e8 [ 編集 ]


無題
1987年当時、実は某友好病院はあまり評判はよくありませんでした。
特に、お腹関係でいくと必ず『うん!盲腸!!』と診察されるので悪名高く、例えば外務省派遣の留学生が例によって『うん!!盲腸ダヨ!!』と診察され、不審に思って大使館の医官に診てもらったら《大腸炎》だったとか(!!)。ウワサでは、その頃はコネで入った医者や看護婦ばかりなので質が最悪ということでしたが…。
その後、大分改善したようですね。
【2011/10/30 23:50】| | 二鍋頭 #4cd61cc30b [ 編集 ]


90年代ネタはコメント欄がやけに充実してて、ブログ主要らない?
nuu店長、大学の医務室って外国人でも診てもらえるんだ。私は就労ビザもらってた当時、その大手企業の地下の医務室でタダで診てもらった(薬もらった)ことあった。

yukiyama嬢、私はあまり病院行かなかったな。でも流産したとき、悲しんで泣くこともできないくらい先生がテキパキしてて怖かった。あれ協和。

マリズさん、外国人用は高いから、海淀のほうの病院も行ったけど、患者診るって態度じゃなくて、ボロボロ泣いたことありました。

jojoさん、こういう有意義なコメント返しが寄せられて、私も含めて皆さん勉強になりますので、ガンガン質問してください。投稿者に。

功夫man 氏、そもそも留学の手続きの条件に「健康診断書」が必要で、それがクリアしてなかったら留学できなかったのでは?私は東京の、、、どこだったかな?指定のところで診断受けて、2万円くらい払った。私はそこで初めて自分の血液型を知りました。その書類でOKだったから、北京に来てからは改めて診断を受けていません。その後、結婚のとき行っていますが、場所は和平里のあたり(だっけ?マリズさん)。今はすっごい西北に移って不便らしい。

功夫man氏の「注射セットをもらってきて」って普通はビックリするでしょうね。私はうちの子が幼児のとき、高熱で児童医院に行ったとき、3日続けて注射するその薬を初日に3日分持たされました。そんなの病院が保管しておけばいいのに、家に持って帰らせなくてもと思った。今はないかな。

某友好病院は出産したヒトがみな「よくなかった」と言っていた(10年くらい前)。だからよくないという印象は私にもあります。
【2011/10/31 10:05】| | みどり第2位 LUCIFER SHINee #55ff3dbc94 [ 編集 ]


北京原人ミステリー
知識年齢100歳超えのピンク字B氏、北京原人情報をありがとうございます。
そういうことだったのですね。
でも、地球上のどこかにはある・・・はず。
見つけたいですね。北京原人を。
【2011/11/03 18:16】| | jojo #4fcdacc7d3 [ 編集 ]


留学時の健康診断
89年留学時は「エイズ検査」が義務付けられてました。留学しなければすることもないような検査で、けっこうな料金払って検査実施してる東京の割と大きい病院に行き、検査結果を書いてもらったの、覚えてます。
で、北京に着いて必要書類を提出して数日後、いきなり留学生担当の先生に呼び出され、再検査のため、病院に連れて行かれました。私、「どこでもいいから留学してみたくて」「近くて安い中国に来てみた」人だったんで、その理由の説明も全然分からず。あとで判明した理由と言うのは「書類の不備」。せっかく受けたエイズ検査の書類が不完全だったらしい。
で、先生に腕つかまれ、公共バスを乗り継いで到着したのは「解放軍○○○医院」。当時は「中国で注射打たれたらすぐ肝炎になるからマイ注射針持って行け」とか言われてたような頃。「解放軍」という文字だけでもなんだか恐ろしくて「もう私の人生、終わった」なんて大げさにも思ったもんです。
【2011/11/03 23:56】| | 琳琳 #9a84b8eb89 [ 編集 ]


看病2
 留学に続いて駐在した広西省柳州地区苗族自治区では、大いに病院のお世話になりました。(94~97年)

中国側老板のお姉さん夫婦が地元の人民医院の外科部長と婦人科部長で、僕の嫁さん共々非常に面倒をみてもらいました。

嫁さんと一緒に生活するまでの1年半はホテル住まいでしたが、夕食は毎日そのお姉さん夫婦の家(病院単位内のアパート)で食べさせてもらっていたくらいに。

駐在していたときは留学時代と違ってよく体調を崩し、熱を出したり、風邪をひいたり、背中の筋を痛めたりと、何度も人民医院で診察を受け、注射を打ってもらったり、按摩をしてもらいました。
それは全て無料で、お金を払おうとしても「ni的都是免費的」と言って受け取ってくれませんでした。

 ある日風邪の治療のためにお姉さんが医院外で営業(?)していた小さな掘っ立て小屋みたいな門診部に行ったときのこと。
そこは部屋の奥半分をカーテンで仕切ってあり奥が見えなくなっていました。外来の患者はカーテン手前で診察を受けたり、注射を打ってもらったりしていました。
僕も他の患者さんたちと一緒に椅子に腰かけ待っていたところ、カーテンカーテンの奥から…
「うぅ…うっ!」と、女性のうめき声が聞こえてきたのです。それは明らかに苦しんでいるか、痛みを我慢しているようなうめき声で、僕は「よっぽど(病が)辛いんだろうな」と思いながら、自分の順番を待っていたら、奥のカーテンが開いて若い女性が前屈みの姿勢で足取りはゆっくりと出てきたのです。
顔は青白く苦しそうな表情で、そのまま門診部を出ていってしまいました。

診察の順番がきて老板のお姉さんに「さっきの人は大丈夫?」と聞いたら、お姉さんは手で空を引っ掻く動作をして「堕胎した」と…。

カーテンで仕切った奥は、妊娠した女性が人工中絶する場所だったのです。

しかも術後すぐに歩いて帰らせるとは。

あれ?そういえば診察を待っている患者さんは僕以外はみな若い女性…
そうか、この門診部は婦人科専門だったのか、と気付いたのです。

日本の病院ならもっと衛生的な処置室で、そのような処置をするんでしょうが、そこは決して衛生的な場所とは言えないばかりか、道具もとてもそろっているとはいえないような掘っ立て小屋…

中国の地方の医療現場でした。

【2011/11/08 19:40】| | 功夫man #54985ffff7 [ 編集 ]


看病3
中国側老板のお姉さん夫婦が外科部長、婦人科部長をしている人民医院の敷地内に、4階建ての診察室兼招待所が完成し、それまでホテル住まいだった僕と嫁さんは、その招待所4階奥の1室を住居として貸してもらえることとなり、テレビや冷蔵庫、エアコンなどを柳州市まで行き購入して夫婦二人で招待所での生活を始めました。

風呂は当然ないので、和式トイレ内の壁にガス給湯器を付け、壁に穴を開けガスパイプを通し、調理用のガス台のガスボンベに繋いでシャワーとして使うようにしました。

これが後に嫁さんの身に大変な事件を引き起こすことになるとは思ってもいませんでした…
【2011/11/11 12:35】| | 功夫man #54985fffd6 [ 編集 ]


只对你有感觉の你はダンナじゃないな
琳琳さん、エイズ検査ってありましたね。今も義務付けられているんだろうなあ。でも私は留学で北京に来てから再検査してないな。「解放軍医院」という名前だとひきますけど、逆に「だからこそかなりしっかりした病院だ」と今なら思えますね。90年代より80年代のほうが外国人はもっと生活大変だったはず。

功夫man氏、カーテン1つで向こう側で堕胎は北京でもありますが、でも絶対男性はいない。たいてい「男士止步」って書いてあるし、いろんなことがOKな中国にあっても、これだけは守っているはず。外国人だったから例外?

ガス給湯器など、駐在員なのに自分で取り付けたんですね?そうやって語学が上達していったんでしょうね。

http://v.youku.com/v_show/id_XMTUzMzc3Mzky.html
「只对你有感觉」。飞轮海のどこがいいかわからない。
【2011/11/11 13:22】| | みどり眼泪再苦再咸有你安慰又是晴天 #55ffc2ad87 [ 編集 ]


いえいえ
 ガス給湯器やエアコンの取り付けは、すべて中国側老板に頼んで、老板に手配してもらって設置してもらいました。
留学2年間の中国語を上達させたのは、駐在で日本人がまったくいない中国の生活環境に放り出されて、24時間中国語を話さないと生活できない環境だったから必然的に上達したんだと思います。
 日本人がいてもそれは日本の会社の上司で、四六時中通訳をしていたので2倍の中国語を話し、中国語が上達したのだと思います。
もちろん嫁さんが来てからも、嫁さんは仕事中も僕の傍らにいましたから、嫁さんの分の通訳をしていました。

 「男人止歩」ですが、僕に限ってはなかったですね。その婦人科部長さんが「いいからいいから来い」という感じでしたから。
ほんとにその老板のお姉さんは僕ら夫婦によくしてくれ、後年、癌で亡くなる前に、すでに会社を辞めて日本に帰っていた僕と嫁さんのことを、病床で息子さんに「jumuとの友誼は永遠だ」と話されていたのを、亡くなった後に電話で息子さんから聞き、電話口で大泣きしました。

ごめんなさい、非常に個人的な話でした。
【2011/11/12 00:15】| | 功夫man #7dbd915651 [ 編集 ]


看病4
人民医院の招待所で生活するようになったある日の夜。
前日までの中国国内出張で体調を崩した僕は、シャワーも浴びずに早めに寝ようとベッドに入りました。
嫁さんはシャワーを浴びにトイレに入り、僕はベッドで本を読み、眠くなるのを待っていました。

2~30分くらい本を読んでいたら眠くなってきたので、さて眠ろうか、と本を閉じ、目を閉じたところ・・・ふと、嫁さんのシャワーがいつもより長いことに気付いたのです。

耳を澄ますと、トイレからはシャワーの音が聞こえてくるので、今日はちょっと寒いから長めに浴びてるのかな、と思い、また目を閉じたら・・・なんか嫌な胸騒ぎがしてきたのです。
シャワーの音に変化がないのです・・・。
普通、シャワーを浴びていたら水音は、人の体に当たって大きくなったり小さくなったりするものですが、ずっと一定の音なのです・・・

僕はベッドから出てトイレのドアまで行き、ドアをノックして嫁さんの名を呼び、「大丈夫か~い?」と呼びかけました。
しかし中から返事はなく、シャワーの音が聞こえるだけ・・・

足下から大きな不安感が襲ってきました。心臓が急にバクバク鳴り始め、手の平でトイレのドアを叩き嫁さんの名を叫びました。
でも何の返事もありません。
僕の頭は真っ白になり、ドアを開けようとしましたが、中から小さなかんぬきを掛けてあり開きません。僕は声にもならない声をあげながら、夢中で右拳で力いっぱいドアを殴りつけました。
ドアが内側へ開いていきました。(この時、なぜかすべての動きがスローモーション映像のように見えました)

ドアが開いていくにつれて見えてきた情景は・・・
トイレの壁に背もたれかかり両足を力なく投げ出し座り、目は半分閉じ、口は力なく半開きで全く血の気をない真っ白な顔をした嫁さんでした。少し脱糞も・・・
シャワーは冷たい水が出ているだけ・・・

僕は驚くのも忘れトイレに駆け込み、嫁さんの頬を叩きながら名を呼びました。
嫁さんは全く反応がなく、目の瞳孔は開き、呼吸も浅い状態になっていました。
ガス中毒?
死んじゃいないけど、すごい危険な状態になっていることは分かりました。
僕は、水になっているシャワーを止めて、トイレの窓を開け、嫁さんを部屋のベッドまで引っ張っていきました。泥酔状態の人を抱えるとすごく重くなっている、といいますが、この時の嫁さんも完全に脱力状態で、50キロあるかないかの体重がすごく重く感じ、両脇に手を入れてずるずると引きずるしかありませんでした。ベッドに乗せるのも一苦労。
何とかベッドに乗せると、とにかく掛け布団で冷え切っている全裸の嫁さんを包み込み、招待所2階にいる值班の看護婦さんのところへ走って行き、「救命啊!我老婆煤气中毒了!」と伝えました。
看護婦さんは、一緒に行こう、と言い、僕と部屋へ戻り、ベッドの上の嫁さんの様子を見て更に目の瞳孔を確認すると、心臓マッサージを始めました。
しばらく心臓マッサージをすると、僕に同じようにして続けるように指示し、部屋を出ていきました。僕は、生まれて初めての心臓マッサージをしながら、ひたすら「死ぬなよ、死ぬなよ、頼むから死ぬなよ」と嫁さんに話してかけたのです。
すぐに看護婦さんが戻ってきて、強心剤か何かの注射を2本、嫁さんに注射し、また嫁さんの瞳孔を確認すると、僕に「もう、大丈夫」とマッサージを止めるように言いました。
それでも嫁さんの顔は生気を失ったような感じでしたが、確かに少し顔に赤みが戻ってきている状態になっていました。僕は安心して力が抜けていくような感じでした。

 数分後、他の看護婦さんも来て酸素ボンベを設置して嫁さんの鼻孔に酸素のチューブを貼り付け、中国側老板のお姉さん夫婦も来てくれて嫁さんの心音などの状態を診察してくれました。
嫁さんの顔にはだんだんと赤みが戻ってきて、開いていた瞳孔も小さくなり、意識が戻ってきているのか鼻孔に差し込まれている酸素チューブを払いのけようと手を動かし始めたのです。
僕は、何度も嫁さんに呼びかけていたところ、嫁さんは眩しそうに眼を瞬きさせ、少し驚いたような顔をして僕の顔を見つめました。
意識が戻ってきたのです。そして、嫁さんは泣き始めました・・・
お姉さん夫婦は、ほっとした様子で「你放心吧。没事儿。」と。

その後、嫁さんは少し吐いたりしましたが、一晩寝たら元のように元気になりました。その夜は、外科部長をしているお姉さんの旦那さんが、僕らの部屋の隣にずっと待機してくれました。
僕に、「再晚10分钟发现,你老婆就没命的。」と。
あのまま僕が本を読んだ後、そのまま眠ってしまっていたら・・・

当時、中国国内で我が家と同じようにトイレにガス給湯器を設置してシャワーを浴びていた家庭で、ガス漏れや一酸化炭素中毒などが原因の死亡事故が多発していたそうです。まったく危なかった・・・
病院の招待所に住んでいてよかった、と心から思いました。

ちなみに事故当時の状況について、嫁さんは、「シャワーを浴びていたら、いつも夜9時に鳴る町の鐘が、なぜか2回聞こえ、足元が揺れたように感じ、あれおかしいな、ガス中毒?と思った次の瞬間には目の前が真っ暗になり、次に真っ暗な闇の向こうに光の点が見えてきて、それがだんだん大きくなり、部屋の中の天井が見え、○○くん(僕のこと)の心配そうな顔が見えた」そうです。臨死体験はしてない、と。

以上、勝手にシリーズ化してしまいました、看病4でした。
【2011/11/23 22:25】| | 功夫man #7dbd915651 [ 編集 ]


これシリーズ化決定ですか
功夫man氏、とんでもない経験をしてますね。でも奥様ご無事でよかった。中国は感電、漏電で死亡なんてニュースありますからね。看病ネタがまだあるのか気になるところ。
【2011/11/25 06:38】| | みどり背影(朱自清) #55ff3db1db [ 編集 ]


看病5
94年6月、台湾での病院体験です。
広西省柳州地区に駐在していた僕は、ある技術を学ぶために台湾出張を命ぜられ桂林から香港を経由して台湾へ行きました。

初めての台湾は中国大陸とはまったく違った印象を受けました。日本に近い雰囲気がありました。台北に着いた僕は、空港に迎えに来ていた現地の会社関係者と車で高雄市へ。そこで日本の本社の上司と落ち合い、高雄市でいくつか商談をして、その後、僕だけ技術を学ぶために嘉義市へ。そこで市内のホテルに宿泊しながら郊外にある工場でおばちゃんたちに仕事を習いました。くせのある「国語guoyu」で教えてくれるのを一生懸命に理解しながら習いました。

約1週間滞在したのですが、疲れからか風邪をひき熱発してしまい、工場の社長が市内の内科医院へ連れて行ってくれました。
それほど大きな病院ではなかったので個人病院だったのだと思います。病院の中の冷房が効きすぎて異常に寒かったのをよく覚えています。受診手続きなどは社長がしてくれ、診察の間、ほとんど話す必要はありませんでした。日本人が受診にくるのが珍しいのか、看護婦が僕を覗き見ながら「日本人?日本人?」と小声で話していました。
そして、打針。看護婦が「両腕の袖を捲れ」というのでTシャツの両袖を捲るとすばやい早さで両腕に注射をスポンスポンと。手首のスナップの利いた注射で、痛みはなかったのですが、両腕に打たれたことに驚きでした。
しばらく待つと薬を処方され、もらった飲み薬がとても彩り鮮やかなたくさんの錠剤。1回に飲む量も多く、4,5個いっぺんに飲め、と。あまりにもきれいな錠剤だったのでホテルに帰ってから、写真を撮ってしまいました。
風邪の症状は注射が効いたのか翌日には治まっていき、処方された錠剤を飲む必要もありませんでした。
この滞在中悲しかったのが、工場の社長が日本料理の店に連れて行ってくれ、久しぶりの日本の味が味わえるとうれしかったのですが、丁度熱がひどかったときだったので、料理の味がぜんぜん分からず、刺身も天ぷらもぜんぜん味がなく・・・。
この台湾出張の後、再び中国へ戻ったのですが、香港から桂林に入った際にビザがないのに気づかず、桂林空港で勾留されてしまったのです。
【2011/12/17 04:50】| | 功夫man #92d92546b1 [ 編集 ]


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