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【2024/04/25 14:33 】 |
コメント欄で盛り上がりすぎ(キリがないから、このくらいにしといてやる)
読者によるコメント=茶色。みどりのコメント返し=緑色

1. あの時代はビンボーで、不便で メチャクチャだったけど 面白かったと思います

本当にそのとおり。ビンボーだった。会社から派遣で来ている、または社会人の経験がなくて親が費用を思う存分出してくれる留学生以外は質素だった。そもそもお金を出しても、今のように何でもある便利な北京生活ではなかった。

2. 北京駅に鮮やかなポスターが 貼ってあって、見たら 列車爆発の被害者の見るも無残なお顔、遺体が何枚も 印刷されてて、それから 怖くて、しばらく1人でトイレに行けませんでした

それは「血的教訓」。北京駅にあったよね。「危険物を持ち込むとこういうことになりますよ」という、血だらけの生々しい写真がたくさん貼ってあった。

3. トイレと言えば、語言に住んでましたが、個室の鍵が壊れていて、いつも割り箸の1本で穴に通して鍵代わりになっていました。こんなオンボロ宿舎は語言だけでしょうか?

大爆笑。箸って……。中国人はビールを栓抜きでなく、箸二本で開けるのも、当時結構ビックリした私。

4.片仔癀、91年に友誼商店で大量に買いました。

片仔癀のパールクリームかロイヤルゼリーは当時のお土産の定番。

5.おそらく北京初の日本人板さんがいらした、80年代猛烈日本人ビジネスマンのオアシスだった『居酒屋兆治』どこら辺りでしたか?

发展大厦の向かいです。三環路沿い。詳しくは過去記事へ。私よりもっと古いオジ様達がコメント欄に「戦後(1945年)以降、北京で最初の日本料理屋は”和風”(元の東安市場内)で1960年代」等とネットで探しても書いてないようなことを書いていらっしゃる。

その近くに(霄云路の入口あたり)当時としては珍しい、日本語の歌があるカラオケ屋がありました。95年に私が結婚したとき、結婚祝いに(おいおい、そのおいわい)日本人女性二人が私を導いた。私が「古城」(三橋美智也)を唄い、二人から「どんな選曲よ?」とツッコまれた。

6. 養老の滝あったよね?

あちきが留学終わって、就労ビザで働き始めたとき、このあたりまで出勤してた。交通が不便で、うちからエラく遠かった。養老の滝は何回か行った。アジア村に「かに道楽「もあった。行ったことなかったけど。どちらも本物だったのか不明。

7.小公共汽車は乗客が集まるまで待っている間に、アイス売りの女の子が乗って来て商売してました。鄭州でのことですが。

今思うと、昔のほうが秩序なく、取締もあまかった。21世紀の首都北京は路上のモノ売りが激減した。90年代は書家の訪中団がよく来たので、そのツアーに同行したことが何度もあって、レストランからバスに乗ろうとすると、「あ、外国人(=カモ)来た」って感じで、物売りがすごくて、まずは「せんせい!せんせい!」って日本語言う。その後「せんえん!せんえん!」。扇子10個千円、ハンカチ10枚千円等。

8. 真面目な留学生じゃなかったので! 毎週金曜日の夜は昆仑饭店のディスコ←今で言うクラブ?に通ってました。 学割で50元、ワンドリンク付き。最後の〆の曲は、映画ボディーガードの主題歌。日本人、結構来てた。 あと、場所は忘れたけど スザンナというディスコもありましたね。行ったことがないけど。

語言学院の中にも小さなディスコがありました。シャングリラ饭店のディスコにも連れて行ってもらいました。

昆仑饭店のディスコは若い子達が行っていた(あちきも20代だったが)。北太平庄と积水潭にあった(どっちかがスザンナだと思う)。私はディスコなんて卒業していたが(本当か?)、ダンナ(そのときまだ結婚してないが)が行くというので何回かついていった。著名画家、方力钧も来てた。

昆仑饭店って当時結構日本人観光客、ビジネスマンが泊まっていて、エレベーターにかならず体を売る女性(どうよ、この言い方)がいて、男性を見ると誘っていた。

9.ディスコって、北京电影学院の所にNASAというのがあった。 あと、北太平庄に8番ラーメン、美国加州牛肉面大王があった。

NASA!懐かしい!!行ったことないけど。八番ラーメンは存在だけ知っているが、できたときに私はそこから引越ししていたので、店を見たこともなかった。美国加州牛肉面大王は何軒かあったよね?みんなで「本当にカリフォルニアに本店があるのか」なんて言ってた。

10. 93年2月、天津留学中に北京に何度か行きました。確か2月には地下鉄料金は5角均一で、3月に行ったら急に2元に値上がりしていて、4倍の値上げにびっくりしたのを覚えています。

これに関して調べてくれた方あり。写真載ってる。

北京地铁票价变化史
图解北京公交车票的发展历史

11.民族学院の近くに新疆料理屋があって、インド料理でいうナンみたいな饼が美味しかったですね。

民族学院の近くの新疆料理屋!!!!あった!!!!何軒もあって、新疆街だった。ゴミゴミしていて、衛生面はかなり心配だったが、食べた。

12.留学先の大学のトイレ、大の方には使用済みのトイレットペーパーを捨てるカゴがありましたね。昨年台湾へ語学研修に行った先の語学学校のトイレも、トイレットペーパーを流さないで溜めるようになっていました。

日本でなぜトイレに紙が流せるかというと、溶けるからだよね。中国のは厚い。昨今はティッシュペーパー(ボックス、ポケットともに)が普及しているけど、当時はトイレットペーパーの形のを部屋で使っていた。それを見た(東京から旅行にきた)実弟が「そうか、そっちでもいいのか」と実家でも使おうとしていたが、日本のトイレットペーパーは薄すぎた。鼻かんでもビシャビシャになるし、用途が違う。

現在、娘の大学の留学生宿舎のトイレもゴミ箱があると。娘曰く「ゴミ箱のあるトイレはそこに捨てる。ないと流す」。今、ローカルの中国人の家に行っても、トイレでそのまま紙は捨てる。古い建物だと下水の設備がしっかりしていないから、流しちゃいけないんでしょう。


13.90年代の冬の男性のアウターと言えば、ほぼ皆さん黒の革ジャンでした。今ほとんど見ないですね。

革ジャンはなんとなく覚えている。それよりサングラスかな。日本だと真っ黒のサングラスしてる人はあまりいないけど、非常に多かった。しかもデカい。実弟が北京に旅行に来て、「なんで中国人はグラサン多いんだよ。あんなデカいの、日本なら石原軍団かあゆかhitomiくらいだ」とツッコんだ。

とりあえず以上。

拍手[1回]

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【2017/02/26 18:13 】 | n90年代 | 有り難いご意見(5)
<<日本語版海闊天空 | ホーム | 三里屯から西(書き終わった。途中に入れた)>>
有り難いご意見
革ジャン
当時の革ジャンには、肩パットが入っていました。
平井ノラみたいに。
【2017/02/26 21:41】| | 功夫man #7f4d0fd1f9 [ 編集 ]


眠いけど、息子がまだ帰宅せず
平井ノラという人の顔はわかるけど、何をしている人かわからない。

94年かな。ダンナの実家(黒竜江省)へ行って、市場でダンナが(いや、まだ結婚してなかった)私の弟に革ジャンを買った。20元くらいですよ。当時の相場よりずっと安い。かさばるし重いし、帰国時持って行きたくなかった。そもそもありえないくらい硬くて、着心地が悪い。あれから一回でも着たんだろうか。
【2017/02/26 22:59】| | みどり刺耳,不爱听(耳が痛い) #4fce0eb241 [ 編集 ]


8番ラーメン!
北陸にしかないと思っていた8番ラーメンがそんな頃のもう北京進出してたなんて信じられない!今はバンコクとかにもあって実はラーメンブームのアメリカでフランちゃうぞやってみようかと調べたら初期投資に1000万円くらいかかると聞いて断念。その北京の8番ラーメンは本物でしょうか…?
【2017/02/27 08:56】| URL | 陸太太 #10c6936e9e [ 編集 ]


嬉しい
みどりさん、私のトイレネタに
ウケていただいて光栄!
割り箸は、ただ挿してあるだけだから、スルッと落ちて、よくなくなるのね。すると不思議なことに新たな割り箸が挿してある。私も割り箸のない個室に入ってしまい、ドアを手で押さえて用を足して部屋に戻り、自分の割り箸を挿しに行ったことがあるよ。
あの時代は、なかなか修理屋さんが来ないから、みんな知恵を絞ったんだね〜きっと。
【2017/02/27 19:13】| | 淳子 #4fb8ca9026 [ 編集 ]


7時半か。もう眠い
八番じゃなくて、8番なんて店名があることにいささかビックリ。北陸の会社なんですね。今、調べたよ。Wikiに書いてある。1995年 - 中国の北京に出店(2004年閉店)。東京にはない?

初期投資に1000万円なんて陸先生に言ったら、余裕じゃないの?陸太太がブランドバッグ3つ我慢したら出せるくらい?

淳子さん、修理屋なんて思いつきもしない。留学生宿舎は壊れてたらそのままだよね。トイレネタでいうと、私が留学していた頃は毎年両親が北京に来てた。一度故宮へ行って、トイレに母と入って、ドアが全部開いているから、ああ空いてると思ってみたら、全部ヒトがいた。ドアの鍵が壊れてなくても、閉めない人種。今でもドアの鍵が壊れているところは多い。高そうなオフィスビルであっても。日本だとまず見かけない。
【2017/02/27 20:22】| | みどり听烦了,听惯了(耳にたこができる) #4fce0eb241 [ 編集 ]


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