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北海公園/閲古楼/三希堂法帖(三希以外)
4. 『薦季直表』221年 鐘繇 (151—230年)肉筆はなし。

釈文:臣繇言、臣自遭遇先帝、忝列腹心。爰自建安之初、王師破賊關東。
・内容を要約すると、「建安の初めころ、自分と一緒に先帝(曹操)にお仕えしていた、元山陽太守関内侯の季直という者が、いま許において貧乏暮しをしております。季直の過去の功績に報いるためにも登用してやってください」。

5.『行穰帖』王羲之(米・プリンストン大学附属美術館)
釈文:足下行穰,九人還示應決不?大都當任。
訳:貴方は農作物の視察にいかれたが、戻ってきた9人がその指示を伝えてきました、おおむね貴方の指示通りにして良いでしょう。

6.『七月帖』(秋月帖)王羲之(台湾故宮)
釈文:《秋月帖》七月一日羲之白:忽然秋月,但有感嘆!信反,得去月七日書,知足下故羸疾,(而)(問)觸暑遠涉,憂卿不可言。吾故羸乏,力不具,王羲之白。
《都下帖》得都下九日書。見桓公當陽去月九日書。久當至洛,但運遲可憂耳。蔡公遂危(當為委)篤,又加(zhi)下,日數十行,深可憂慮。得仁(祖廿六日問,疾更危篤,深可憂! 當今人物眇然,而艱疾若此,令人短氣。)
内容は簡単な相手の安否を問う尺牘。草書で7行50字。謝尚への見舞状ともいわれている。『都下帖』(『都下九日帖』・『桓公当陽帖』とも)と合わせて一軸とした14行の模本が存在。『都下帖』も草書の尺牘で、書風も酷似。その両帖一軸を日本では『秋月帖』、中国では『七月都下帖』と称すことが多い。

7. 『二謝書云帖』王羲之
釈文:二謝書雲,即以七日大蘞,冥冥永畢,不獲臨見,痛恨深至也。無復已已。武妹修載在道,終始永絕,道婦等壹旦哀窮,並不可居處,言此悲切,倍劇常情,諸不能自任。未遂面緣,撫念何已,不具,羲之頓首。

8.『張翰帖』欧陽詢(北京故宮)
釈文:張翰字季鷹,呉郡人。有清才,善屬文,而縱任不拘,時人號之為江東歩兵。後謂同郡顧榮曰:天下紛紜,禍難未已。夫有四海之名者,求退良難。吾本山林間人,無望於時。子善以明防前,以智慮後。榮執其(疑缺“手”字)愴然,翰因見秋風起,乃思吳中菇菜鱸魚,遂命駕而歸。

9.『蘭亭序』王羲之(馮承素等)(北京故宮)
353年(永和9年)3月3日に、名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言われている。いわゆる「率意」の書。28行324字。

10.『自書告身帖』顔真卿(台東区立書道博物館)唐・建中元年(780)
釈文:敕 國儲為天下之本,師導乃元良之教。將以……
訳:勅する。国君の後継者は国家の根本であり、師としての指導はつまり、将来の善政のためのよい教えである。

顔真卿(709~785)……皇帝に尽くし、反乱に立ち向かった忠臣として知られ、書法史では王羲之と並ぶ大家として尊敬されている。

自書告身帖……顔真卿の現存する唯一の肉筆楷書。皇子の教育係に転任するよう命じられた辞令(告身)を自ら書いたもので、72歳の書。名誉職に任命されたものの、まだまだ自分は現役であると主張しているかのような、強い気迫を感じさせる書風がみどころ。縦画の送筆部分を最も太くすることで迫力を表現しているが、変化しているのは線の外側であり、内側を直線的にすることで空間の美しさを保っている。麻姑仙壇記とは異なり、筆が冴えて活動しているタイプ。筆の弾力を効果的に用いて、結体にも筆意にも変化が多いのが特徴。蚕頭燕尾が随所にみられる。

11.懐素『論書帖』(遼寧省博物館)
釈文:為其山不高,地亦無靈;為其泉不深,水亦不清;為其書不精,亦無令名,後來足可深戒,藏真自風發.近來已四歳,近蒙薄減,今所為其顛逸,全勝往年.所顛形詭異,不知從何而來.常自不知耳,昨奉《二謝》書,問知山中事有也。

狂草で知られる懐素だが、これは趣が異なり、王羲之のような穏やかさを醸し出している、初期の作品である。

12.『蒙詔帖』柳公権
釈文:公權蒙詔,出守翰林,職在閑冷,親情囑托,誰肯響應,深察感幸。公權呈
柳公権の手紙。自分が年をとり、体が弱くなり力に限界がある。私の職務は暇で、他人のために何か大きなことをすることはできない。私の難所をどうか理解してください。

柳公権……顔真卿をよく学び、顔真卿没後は、顔法を継承した有名な書家と評されている。
蒙詔帖……柳公権の書ではなく、宋人の摸本だと言われている。

13.『千字文』(宗)高宗(台湾故宮)
  千字文は中国古代より子どもが漢字を学ぶ教材として用いられた長詩で、南朝・梁(502–549)の武帝が、文官の周興嗣(470–521)に作らせた。
  「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、四字一句の250句からなる韻文で、1000の異なる字が使われている。
 文字は王羲之の字を、大臣の殷鉄石に命じて模写して集めさせた。完成当初から非常に珍重され、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した。
歴代の能書家が千字文を書いている。中国では智永、褚遂良、孫過庭、張旭、懐素、米元章、高宗、趙子昂、文徴明などの作品が有名。


14.『持書帖』蔡襄(北京故宮)
釈文:襄啟:數日前遣使持書棨戟之下,輒邀行舸光臨弊境,計已通達當直,未審尊懷如何?惠然壹來,殊為佳事。病軀不常得安,多緣飲食而致。山羊澀而無味,雖食不過三二兩,魚鱉每食便作腹疾,以此氣力不強,日久必須習慣,今未雕適耳。蒙書並海物,多感多感! 謹奉手啟上聞。不宣。襄上,賓客七兄執事。八月二十四日。謹空。

蔡襄(1012~1067年)……政治家、文人、書家。進士に合格して翰林学士、三司使となり一時宋の財政を総轄したが、英宗の誤解を受けて辞し、地方官を歴任した。王羲之流の書風と神宗以後に盛行した顔真卿流の書風を兼ねそなえた書体。

15.司馬光(1019~1086年) 北宋の儒学者、歴史家、政治家。
  司馬光の瓶割り(司马光砸缸)。

16. 『黄州寒食帖』蘇軾(台湾故宮)
釈文:一曰:自我来黄州,已過三寒食,年年欲惜春,春去不容惜。今年又苦雨,兩月秋蕭瑟。臥聞海棠花,泥汙燕支雪。闇中偷負去,夜半真有力。何殊病少年,病起須已白。”
二曰:春江欲入戸,雨勢来不已。小屋如漁舟,蒙蒙水雲裏。空庖煮寒菜,破竈燒濕葦。那知是寒食,但見烏銜紙。君門深九重,墳墓在萬裏。也擬哭途窮,死灰吹不起。
訳:<一首目>私が黄州に来てから三度の寒食が過ぎた。年々、春をいとおしむ気持ちはあっても、春は過ぎ去って行き、惜しむゆとりもない。今年はその上、雨にも苦しめられ、ふた月は秋のように寂しかった。横たわって、海棠の花の香りを聞き、えんじ色の花びらも虚しく、泥にまみれる様を思いやった。夜半の暗闇にまぎれて大力の男が春をこっそり運んで逃げてしまったようだ。これでは病気で長らく寝ていた若者が、病が癒えて床から起きたときにはすっかり白髪頭になっていたのと変わらないではないか。
<二首目>春の長江は水嵩を増して戸口に押し寄せ、雨の勢いは一向に止む気配がない。この小さな家は漁舟のように、濛々と立ち込めた水煙の中にある。がらんとした台所で粗末な料理を煮ようと、壊れたかまどに湿った葦をくべる。今日が寒食の日だとは知らなかったが、ふと見ると烏が紙銭をくわえて飛んでいる。天子の宮門は九重もあってあまりに深く、祖先の墓がある故郷もまた万里の彼方にある。あの阮籍のように道に行き詰って慟哭しようにも、冷え切った灰は吹いても燃え立たない。

蘇軾(1036~1102年)……政治家、詩人、書家。王安石の新法に反対し、しばしば左遷された。黄州に左遷されたときに詠じた「赤壁賦」は代表作。多才で、散文・韻文ともにすぐれ、散文では唐宋八大家の一人に数えられ、詩も宋代詩人中第一に位した。書ははじめ二王を学び、後に顔真卿、楊凝式、李邕を学んだ。

黄州寒食帖……宋の元豊5(1082)年、蘇東坡が黄州(現在の湖北省黄岡県)に流謫された時に、自詠の寒食の詩二首を書いた作(47歳)寒食節は冬至から数えて105日目、清明節の前日(今の暦の4月4日前後)に当たる。寒食節には春秋戦国時代に晋の文公(重耳)の忠臣であった介之推が焼死したことを悼み、一切の火食を禁じ、冷めた食事を取るという習わしがある。

17. 『松風閣詩帖』黄庭堅(台湾故宮)1102年
釈文:依山築閣見平川,夜闌箕鬥插屋椽。 我來名之意適然。老松魁梧數百年,斧斤所赦今參天。 風鳴媧皇五十弦,洗耳不須菩薩泉。 嘉二三子甚好賢,力貧買酒醉此筵。夜雨鳴廊到曉懸,相看不歸臥僧氈。 泉枯石燥復潺湲,山川光輝為我研。 野僧旱饑不能饘,曉見寒溪有炊煙。東坡道人已沈泉,張侯何時到眼前。 釣臺驚濤可晝眠,
怡亭看篆蛟龍纏。 安得此身脱拘攣,舟載諸友長周旋。
訳:山に寄り添って築かれた楼閣、そこから広い長江が見渡せる。夜が更けると、箕、斗の星座が軒端のたるきにかかっている。私はここへ来て、「松風閣」と名付けたが、心によく適っている。……

黄庭堅……書家、詩人、文学者。若いときから草書が好きで、初め宋代の周越を師としたが、越に学んでから20年ほどの間は古人の用筆の妙を悟れず、俗気にとらわれてそれを脱することができなかった時期である。黄庭堅がもっとも苦しんだのがこの俗気を脱することであった。その後顔真卿、懐素、楊凝式などの影響を受け、また『瘞鶴銘』の啓発を受け、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立。懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なる。

松風閣詩帖……崇寧元年(1102年)の流謫中の書で、晩年の作として特に重視されている。自詠の詩。行書29行。この詩巻には顔真卿の他に、柳公権の筆意をも兼ねあわせた筆致が伺え、一段と円熟した境地に達している。


18.『苕溪詩卷』米芾(北京故宮)(1088年)
釈文:將之苕溪,戲作呈諸友。襄陽漫仕黻。
松竹留因夏,溪山去為秋。久賡白雪詠,更度采菱謳。縷會(此字誤書旁註蔔乃點去符號)玉鱸堆案,團金橘滿洲。水宮無限景,載與謝公遊。半歲依修竹,三時看好花。懶傾惠泉酒,點盡壑源茶。主席多同好,群峰伴不嘩。朝來還蠹簡,便起故巢嗟。余居半歲,諸公載酒不輟。而余以疾,每約置膳清話而已,復借書劉、李,周三姓。好懶難辭友,知窮豈念通。貧非理生拙,病覺養心功。小圃能留客,青冥不厭鴻。秋帆尋賀老,載酒過江東。仕倦成流落,遊頻慣轉蓬。熱來隨意住,涼至逐緣東。入境親疏集,他鄉彼此同。暖衣兼食飽,但覺愧梁鴻。旅食緣交駐,浮家為興來。句留荊水話,襟向卞峰開。過剡如尋戴,遊梁定賦枚。漁歌堪畫處,又有魯公陪。密友從春拆,紅薇過夏榮。團枝殊自得,顧我若含情。漫有蘭隨色,寧無石對聲。卻憐皎皎月,依舊滿舡行。
訳:苕溪に行こうとして、戯れに作り、友人達に示す。襄陽漫仕黻。
松と竹の間に留るのは、夏の暑さにより、溪や山に出かけるのは、秋になったため。長い間かけて、白雪の詠(うた)に和し、さらに采菱の歌を作った。玉をつづったような鱸(すずき)はテーブルに盛られ、金を丸めたような橘(みかん)は川の中洲にいっぱい。水辺の御殿は限りない好風景。(鱸と橘とを)載せて、謝公と遊ぼう。……

米芾……書は初め顔真卿、褚遂良を学び、のち王羲之、魏晋の諸名家に遡って研究をすすめた。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は4人の中で最も書技に精通している。他の3人はエリート政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家であった。

苕溪詩卷……『蜀素帖』と同じく林希に招かれて苕渓(浙江省)に遊ぶに際し、友人たちに贈ったものである。真跡はもと清の内府所蔵。満州国崩壊時に略奪寸断されたが、1963年に発見され復元修理された。

19.陸游 南宋の政治家、詩人。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。

20. 康里巙巙『顔魯公論書帖』
康里巙巙……色目人でありながら、父の学問をうけて漢文化に親しみ、元の功臣になるべく幼時に国子監に学び英才教育を受けた。官僚としての活躍はめざましいもので、35歳にして礼部尚書(文部大臣)となり、重職を歴任。国家への功労から、文忠と諡さる。康里は鍾繇、王羲之、王献之を学び極正当な学習方法。また虞世南、米芾ともに王羲之書法の継承者。康里回回(兄)も元朝につかえていたが、顔真卿をよくした。

21.沈度<書家>、沈粲(沈度の弟)<書画家>、于謙<政治家>、姜立剛<書家>、姚綬<官吏、書画家>、呉寛<名臣、詩人、散文家、書家>、沈周<画家>、王守仁(王陽明)<儒学者、思想家、高級官僚、武将>

22.祝允明(1461~1527年)
祝允明……書家、文人、官吏。早熟の英才で、酒色と勝負事を好み、俗を憎んで晋人の高踏を慕い、多くの奇行が伝えられている。書は壮年のころから臨書に巧みで、晩年に至るまで古今の法書の研究に努め、各体をよくした。天性が磊落豪放であったためか、晩年は奔放な狂草に長じた。

23.文徴明……文人、書画家。詩文を呉寛に、書を李応禎に、画を沈周に学んで三絶と称賛された。科挙試験は10回受けて合格しなかった。嘉靖2 (1523) 年、翰林院待詔の任につき『武宗実録』の編修に従事したがわずか3年で辞職、郷里に隠棲して書画を楽しみ悠々自適の生活をおくった。

書は李応禎に学び篆隷楷行草の五体を書いた。日本に将来され江戸時代の唐様書道に大きな影響を及ぼした。

24.『煙雲盡態』
乾隆帝(1711~1799年)……清代の六代皇帝。在位1735~1795年。雍正帝の第四子。名は弘暦。康煕・雍正と続いた清朝の最盛期に即位。外征に意を用い、西・南部を内地化しようとし、貴州,雲南に出兵、ジュンガル部、回部の平定を完成し、チベットを支配下に置き、中国史上最大の版図を得た(十全の治)。学術を奨励し、学者を動員して『四庫全書』をはじめ数多くの欽定書を編纂した。また書画の蒐集にも関心を示し、内府に史上最大の蒐集を完成した。詩文に堪能で、多くの詩文集を残している。また書画も能くした。

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【2017/06/21 16:52 】 | 書道 | 有り難いご意見(2)
<<今時いくらなんでも国営企業(のような) | ホーム | 卓球芸人ぴんぽん+丁未堂画伯など>>
有り難いご意見
リスペクト
改めて尊敬です。

私にはよくわかりません。

元旦那の仕事を手伝ってる時に
水墨画はある程度知識は得られたけど
書は全くわからなかった。
まず隷書と臨書の区別がつかない!

その上、漢詩となると
もう宇宙語でした。

だから個展で作品を説明する時に
よく困りました。
【2017/06/21 19:16】| URL | 淳子 #7f4d100d12 [ 編集 ]


漢文訳せないよ
隷書と篆書じゃなくて??説明する必要があったら、します。書の理論は奥が深い。北海公園に行くためにずっと調べていて、そうすると歴史も出てきて、読んでいたらキリがない。勉強してて面白いけど。ぼちぼち記事にする。
【2017/06/23 09:10】| | みどり使得现在全民崇拜资本英雄 #4dab706c53 [ 編集 ]


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