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【2024/03/28 22:29 】 |
北京師範大学のいま
(この記事を90年代初頭私と学び舎をともにしたお兄様に捧ぐ)

留学が終わってから20年以上、一度も大学内に入ったことがなかった。前を通ったのも7、8年前かな。

これが留学生宿舎に一番近い門。21世紀の今はこんなに立派になって、見違えた。歩道橋ができていて、そこから撮影。





留学生宿舎の端。カフェができていた。



留学生宿舎の入口。


右がお兄様が日夜舞っていた場所。そこにお湯をもらうところがあって、部屋にあった魔法瓶を持って、汲んでもらいに行っていた。そのお湯をくれるおじさんが、かの有名な启功(教授、書家)だったという噂がまことしやかに流れていて、私は先生の部屋まで行って会っていたので(日本の大学の教授に紹介されて)、みんなに違うよと教えてあげていた。

中に入る。入口に門番がいるはずだから、「昔留学していました」という覚悟をしていたのに、誰もいなくて拍子抜け。

当時、日本人男子が言っていたのだが、このロビーにあったソファをアフリカ人が部屋に持って行って、使っていた。ソファがなくなったから、学校は大騒ぎで、部屋を一つ一つ調べたら、アフリカ人の部屋にあった。それを指摘すると、「これは自分のだ」と言い張ったそうだ。アホすぎるぞ、アフリカ人という話を今でもよく覚えている。

宿舎に入ってすぐ右に小卖部ができていた。ここに電話があって、国際電話をかけるときにここに来ていた。階ごとについていた電話は市内通話しかできなかった。電話鳴ると、近くの部屋の子がとって、「○○。電話だよ~」と呼んでいた。私がいた階は争うように電話をとる日本人女子が二人いて、ダッシュがすごかった。


孔子像は私のいた頃からあったらしいが、記憶にない。


中国人の宿舎。外に干すと凍るよ。




敷地の西の方まで行った。90年代は水張って、スケートリンクがあったというのだが、私は知らない。中国の大学にしては大きい方ではないが、行動範囲は宿舎⇔出口だったからなあ。

留学生宿舎から一番近い出口を出て右(南)に行った交差点。今は十字路だけど、私がいたときはT字路だったと思う。大学の角にこんな高いビルディングが立っている。



ここは校舎が近代的になっても、まだ残っているからいいけど、二つ目の留学先(美大)は引っ越してしまい、元の場所には建物さえほぼ何もない。

時は流れても、私が学んだ精神はそこに残っているんだよと自分を慰めた。

拍手[7回]

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【2017/01/02 22:29 】 | n大学 | 有り難いご意見(15)
<<双鉤填墨の動画 | ホーム | ニュース:12月20日―1月1日in中国>>
有り難いご意見
中国の大学のマンモス化
明けましておめでとうございます
 
みどり先生の年越しそば、 三段おせち料理見事で感動しました。日本の伝統を大切にされているのですねぇ。

北京師範大学を訪ねてのレポート感慨深いですねぇ。
当時の留学生の人数や国籍をはどんなふうでした。1990年代って中国は日本よりある意味国際化してましたよね。北京語言学院に行ってビックリしたこと鮮明に覚えてます。
【2017/01/04 09:25】| | 東北太太 #4ef5ae3b40 [ 編集 ]


今日はものすごく白い。出かけるけど
おせちはごまめを作るの忘れた。きんとんもつくろうと思えば、栗でなくさつまいもで!と思ったけど、まあいいや。

子どもが小さい頃は大晦日にNHKが見られるところに日本人数家族で泊まって、過ごしていました。一度、鯛の尾頭付きを焼いてきた人がいて、料理が上手な人ですが、北京でそこまではできないなと思った。

お重が立派なので、それなりに見える。伊達巻は料理教室に参加したとき、食べないで持ち帰り、冷凍しましたが、今年日系スーパーへ行ったら、売っていたので、時代は変わったなと思った。昔はなかった。

大きい大学は潤沢だから、新しい建物を建てて、どんどん立派になっていく。採る学生数も増えていますしね。

私がいたときは留学生が200人いて、半分日本人でしたよ。あとはアフリカ人、欧米人。東南アジアの子はいなかったな。MITから来ているクラス(麻大班)と、ロンドン大学から来ているクラス(伦敦班)が単独にあって、中国語レベルに応じて13班までありました。私が留学して2年目に韓国と中国の国交が樹立され、ぼちぼち韓国人がやってきました。あの頃留学生が一番多かったのは語言学院でした。いろいろ不便だったけど、楽しかったな。
【2017/01/04 10:59】| | みどり那始终是事实(それが真実) #55fff8a532 [ 編集 ]


語言学院
語言は、それはそれは留学生の多い学校でした。
グローバルで、多国籍。

塔楼という高層の宿舎は2つあって、黒い人はみな
そこに追いやられてた。
理由は日本人の女子を守るため。

私の時は韓国人と日本人がほぼ同数なくらいたくさんいたよ。

語言には様々な伝説があったよ。
懐かしいな。

それからピアノの練習室を借りに
自転車で中国音楽学院にも通ってました。
あまり大きくない学校で、私はここが好きだったな。

美術学院も何度か行ったよ。
そこで初めて翠さんと会ったよね。
回りが胡同で、とてもいい雰囲気だったね。

とにかく車道は車が少なく、圧倒的に自転車が多い道がよかった。
【2017/01/04 13:07】| | 淳子 #7f4d103b9b [ 編集 ]


ここ数日は白い時間が長く、数値も高すぎるな
90年代前半だよね?つまり国交樹立して数年で韓国人はどんどん大挙してきたわけだ。

私が留学するときに、すでに高校の同級生が語言に留学していたのね。それで何回か行った。食堂にプリンがあって、感動したものだ。あとは両替ですかね。

ピアノをわざわざ練習しにいってたなんて!今はチェーンのピアノ教室が複数あって、お金出せば場所貸してくれる。

美院は王府井だから、胡同もあるけど、デパートとかあって繁華街でもある。美院の西側はホテルとか、高級車売っているようなエリアになってしまった。昨日知ったんだけど、美院は教員宿舎だけ残っていると。敷地内じゃなくて、徒歩2分のところのアレかな。

昨日、お宅の御子息に「だしの素」が渡るよう、お父様に直接渡しました。
【2017/01/05 02:00】| | みどり人没有什么牺牲的话(人は何かの犠牲なしに) #55fff8a532 [ 編集 ]


ありがとう
語学の留学生食堂のプリン、
本当においしかったよね。

だしの素、ありがとう。
やっと息子、らいんのブロックを
解除したよ。

志望校も何校か決まったらしい。
【2017/01/05 08:14】| | 淳子 #47f2c11e57 [ 編集 ]


あぁ…
懐かしい…
宿舎入り口付近は、当時の雰囲気がたっぷり…
懐かしい…
涙涙涙涙涙涙涙涙涙涙涎
【2017/01/05 10:22】| | 功夫man #7f4d0fd1ff [ 編集 ]


北京白いの続行中。よく学校休みにならないな
淳子さん、御子息には会えず、お礼のメッセージだけきた。後で連絡します。

功夫man氏はあのときの留学生と今でも連絡をとりあって、日本で会っていますよね。私は何人か北京にいるのは知っているが、電話番号も知らない。上海組も上海にいるんだろうなあ。メールしてみようかな。北京には一人、ヒゲのイカついのだけ、微信でつながっています。大学の後輩でもあるので、ご馳走するって言ってんのに、ヤツは非常に忙しい。本当に北京に是非お越し下さい。
【2017/01/05 11:00】| | みどり人就什么都得不到(何も得ることはできない) #55fff8a532 [ 編集 ]


北京ではありがとうございました
仕事中なのに書き込みです、汗。
北京ではありがとうございました。
また一人で家出した際は遊んでやってください。

師範は本当立派な建物がたくさん建ってますね。
隣の郵電のしょぼい事。。。

私は1990年終わりに留学していましたが、
当時は日本人留学生は師範に一番多かった気が
します。大勢が嫌だと言って郵電に何人か来た留学生もいましたから、かなりなマンモス学校だったのでしょうね。

この師範の留学があってこそ、みどりさんと旦那さんとの出会いがあったわけで、本当思い出深い学校だと思います。同じく私も郵電があってこそですね!


【2017/01/05 16:15】| | sumari #7f3c6abab7 [ 編集 ]


楽しかったよね
師範大学は本当に立派。どれだけ投資してんのか。1990年終わりでも、師範大学よりは語言とか北大清華のほうが多かったんじゃないかな。中国人大学生の数が違うし、留学生も相当いたはず。

私は師範大学でダンナと知り合ったんじゃないよ。だから、思い入れはまったくない。大学の先輩(杭州にいた)を通じて、書道をやっている人と知り合いたくて、わざわざ美大へ出向いて、それから在校生(中国人、日本人)と知り合って、そこでの縁だから。どこの大学で語学留学していても、知り合っていたと思う。

師範大学は日本人が多すぎて、同室も両隣もみんな日本語環境という不満は初めにあったけど、4教科の4人の先生はいずれもよかった。先生は日本語できないから、オール中国語だし、外国人を教えるプロだった。皆勤賞とるくらい真面目に中国語やった。確か200元もらった。
【2017/01/05 22:07】| | みどり为了得到什么东西(何かを得るためには) #55fff8a532 [ 編集 ]


なるほど
みどりさんと旦那さんはどこかで出会う
運命だったんですね。

郵電にいた日本人留学生は、半分は老人班だったので、師範は若い留学生が多いイメージがあります。
【2017/01/06 00:29】| | sumari #7dc3d7d98a [ 編集 ]


その運命が良かったのか悪かったのか
18の子もいたし、大学在学中に休学して来ているか、短大、大学を出た子ばかり。そんな何歳も違わないのに、私ともうひとりは働いてから来ていて、20代半ば。それで私ら「きんさんぎんさん」って言われてたんだよ。数えるほどだったけど、30過ぎの人もいたし、40過ぎてたら、相当オバさんだったな。

美大留学時は、結婚していて家族を日本に置いてきている男性もいて(珍しいよね)、平均年齢は語学留学の学校より高かった。それでも郵電には……。
【2017/01/06 09:13】| | みどり那就是炼金术的等价交换原则 #55fff8a532 [ 編集 ]


僕らは
みどりさんが「きんさんぎんさん」なら、僕は同い年の人二、三人とともに、「老人班」「老人組」と呼ばれてました。
27,8歳の若造だったのにね。
【2017/01/11 17:47】| | 功夫man #9b11124a7a [ 編集 ]


今日は18時より前に眠くなった
学生にとっては、社会人を経験している人は「オ・ト・ナ」だったでしょうね。でも、老人はひどいな。きんさんぎんさんもひどいけど。今思えば、20代なんて超ウルトラスーパー若いのにね。
【2017/01/11 20:27】| | みどり我们所经受的痛苦(僕らが受けた痛みは) #4fce0ed84b [ 編集 ]


そう
ピンピンでした。
なんてことを書くこと自体がおっさんになった証拠。
【2017/01/12 20:54】| | 功夫man #4fbf67033a [ 編集 ]


下 ネタやめなさいっての
上品なブログに上品でないコメントを書かないように。ブログ主がついていけないから(ついていってる?)
【2017/01/12 21:08】| | みどり而且无论是谁(そして、人は谁でも) #4fce0ed84b [ 編集 ]


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