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【2024/04/23 23:05 】 |
義達里というところ

私のブログ、「いつか書く」が100くらいたまっているけど、最新のから処理していく。

 昨日写真を貼った「义达里」へ行く場合の予習。

张济新先生,辽宁铁岭人氏,光绪年间得中拔贡历任县令、道台。辛亥革命后,成为张作霖在沈阳大帅府的总务处长兼张学良的老师作霖时还曾任京兆尹。后辞官寓居北京,日以写字为乐。抗战时期老人以病由,拒日之邀。解放,又拒国府要他赴北共商大。解放北平市主动劝说傅作北平和平解放奔走,故有“和平老人”之称。1952年冬,张先生辞世,享年84


 張済新は辛亥革命の後、瀋陽の大帥府(張作霖と張学良の官邸、私邸)の総務処処長、張学良の先生を務めた。京兆尹(今でいう首都の市長)を勤め(京兆尹という名称は張済新が最後)、退任後も北京にいて、毎日字を書くことを楽しみとしていた。抗日戦争では病を理由に満州国の誘いを頑なに拒否し、解放戦争では国民政府からの東北行き要請を断った。傅作義を説得し、北平の平和的解放のために奔走した。故に「平和老人」と呼ばれた。



义达里曾为定王府旧址的其中一部。1928年定王府后人恒如馨等人为维持生计,把王府卖给华比银行。1930年天津巨商韩某购买此地,盖起十二座小楼,逐渐形成居民区。并有了义达里、乐群巷、孝贤巷、慈祥巷、福德巷、忠信巷、勤俭巷等7条小巷。1965年这些小巷合并,统称义达里。除义达里外,砂锅居、二炮招待所及原九三学社办公住所也属于定王府旧址范围。

  かつては王府の一部だったが、1928年に恒如馨(爱新觉罗·毓朗=乾隆皇帝の六代目、婉容の祖父が生計を立てるために、王府を華比銀行(ベルギーの銀行)に売却した。1930年、天津の豪商韓某がこの地を買い、12棟を建て、居住区となっていった。

参考


走访义达里
义达里胡同



 この数カ月で二人、このブログを参考に街歩きをしていると言われた。実際会ったヒトで二人ってことは、実質200人?じゃあ真面目に書こうかと思う。


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【2016/05/17 08:24 】 | n博物館、観光地、散策 | 有り難いご意見(0)
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