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【2024/04/24 12:46 】 |
朱啓鈐故居,趙家楼跡
  この1月。建国门社区博物馆をネットの地図で見つけて行った。そしたら個人の参観は火木のみ。それで赵堂子胡同を東に。



  200mくらい進むと左手に朱启钤故居。中には入れない。




 
朱啓鈐(しゅけいけん)は、清末民初の政治家。北京政府、交通系の政治家として知られる。字は桂莘、桂辛。号は蠖園。祖籍は貴州省紫江県。徐世昌の義子。

挙人となり、1903年(光緒29年)3月、京師訳学館監督に就任する。1905年(光緒31年)10月、北京外城巡警総庁庁丞となる。(1907年(光緒33年)に東三省蒙務局督弁に任じられた。まもなく日本へ赴き、北海道で開墾事業を視察している。1909年(宣統元年)、津浦路北段総弁に就任する。
1912年(民国元年)7月、北京政府の陸徴祥内閣、趙秉鈞内閣において交通総長に就任した。また、趙秉鈞内閣崩壊後の翌年7月、一時は国務総理を代理した。政治的には、梁士詒が率いる交通系に属している。9月、熊希齢内閣で内務総長となり、京都市政督弁等も兼任した。1915年(民国4年)、袁世凱の皇帝即位画策を主導し、9月、大典籌備処処長に任じられている。

しかし、袁が翌年6月に死去すると、朱啓鈐は帝制推進の罪を問われて指名手配を受けることとなり、天津に逃げ込んだ。1918年(民国7年)に赦免され、同年8月、安福国会の参議院副議長に選出された。その翌年2月の南北和平交渉で北京政府側の総代表をつとめ、上海で南方政府代表の唐紹儀らと交渉した。しかし失敗に終わり、再び天津へ隠棲した。以後は実業界で活動し、山東中興煤鉱公司総経理、中国営造学社社長などをつとめている。

晩年は上海に寓居し、中華人民共和国建国後も大陸に留まった。中央文史館館員や中国人民政治協商会議全国委員もつとめている。

1966年2月26日、北京で死去。享年95(満93歳)」<Wikipediaより>

故居に入った人がブログで写真を載せている→访朱启故居。いたって普通の平屋。

 以下、百度百科より。朱启钤故居是朱启钤在二十世纪30年代购置的,当时还是一座未完成的建筑,后由他亲自设计督造,建成为一处大型宅院。北京沦陷时期,被日本人强行购买,抗战胜利后又发还朱家。新中国成立后,朱启钤将此宅献给国家,全家迁入东四八条111号。1986121日,赵堂子胡同3号被公布为东城区文物保护单位,现为某单位宿舍日本人が無理やり買ったことがある。

      突き当たるまで東へ。


    南下。


      赵家楼饭店。
     


家楼……家楼位于北京安街端之北,原明代在位时间仅6年的明穆宗隆朝文渊大学士的宅邸,后来成曹汝霖的第宅。因五四运中的“烧赵家楼”事件而名中外。解放后,曹旧宅已全部拆除,在原址建起了新楼房,位招待所。19845月,为纪念五四运65周年,北京市青年合会和共青团东城区委合在家楼胡同1号的嵌了一“五四运烧赵家楼旧址”牌,以永久念。200251日,家楼址正式放,成为爱国主教育基地。



火烧赵家楼……19194月底,中国代表在“巴黎和会”失败的消息来,国人大,群情激54日,北京各校爱国学生北洋军阀国行径,游行示威,他烧赵家楼,痛打章宗祥,引了震惊中外的“五四”国运家楼的烈火拉了中国新民主主革命的序幕。1919年、パリ講和会議の失敗を知った国内の中国人は怒り爆発。54日北京の大学生がデモを行い、赵家楼に放火し、章宗祥を痛いなんてもんじゃないくらい殴った。家楼の烈火が中国新民主主義革命の序幕を開いた。

  赵家楼曹汝霖の邸宅で、曹汝霖は外交部次長のときに対華21カ条要求交渉に臨んだ人。ボコボコにやられた章宗祥駐日特命全権公使)がたまたま帰国して曹汝霖宅にいて、学生達は曹汝霖と間違えて、章宗祥をボコボコにしてしまった。

    北上。



     北总布胡同二号原是用建协和医院的余料盖的,是美国煤油大王洛克菲勒基金会董事长为其父母盖的,抗日战争时一日本官僚居住。日本投降后,此宅被收归国有。根据停战协定,为调处国民党、共产党之间的军事冲突,成立了军事调处执行部,简称军调部。中共代表叶剑英、国民党政府代表郑介民、美国政府代表罗伯森,后美国总统特使马歇尔也参加。民国三十五年(1946),此宅为军调部国民党代表驻地。后又归国民党第十一战区司令长官孙连仲居住。解放后收归国有,成为某单位宿舍。
   
 

    去年の9月にここに来ていて、ブログにアップしている。ロックフェラーが両親のために建て、抗日戦争中は日本の官僚が住んだ。日本投降後、国有になった。

  <このあたりまた行ったから後日続く>

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【2016/04/14 11:26 】 | n博物館、観光地、散策 | 有り難いご意見(0)
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